笹部桜考(50)
    笹部コレクション(17)

    古伊万里錦手桜花文手付徳利
    【こいまりにしきでおうかもんてつけとっくり】

    (江戸時代中期)

    寸法:胴径9.0×高さ15.5 cm
    杉元仁美
    酒ミュージアム(白鹿記念酒造博物館)学芸員



      日本の磁器は1616年(元和2)朝鮮人の陶工・李参平【り・さんぺい】によって肥前 (佐賀県)有田皿山で磁石が発見され、焼出したのにはじまります。京都金閣寺の鳳林承章(1592~1660)の日記「隔冥記」にて「寛永16年11月13日条、今利焼藤実染漬之香合」とあり、<今利焼>すなわち<伊万里焼>の呼称が記されています。

      <伊万里>と呼ぶようになったのは、伊万里津(港)から有田で焼造された染付磁器が移出され、<伊万里焼>と呼ばれるようになります。<伊万里>は寛政以後、著しく量産化されていったため、元禄・享保以前の古格を示す作風のものは<古伊万里>と称されています。「古伊万里」は三期の変遷に大別されています。第一期では創始から寛永・正保・明暦年間に染付を主体とした青磁・白磁などの初期染付、第二期では正保・明暦・寛文・延宝年間に赤絵の創始、第三期では延宝~元禄・享保年間に輸出の全盛期となります。 初期の伊万里染付磁器は日常雑器として焼造されていましたが、オランダ東印度会社より注文を受け、輸出用磁器として多量に生産されるようになり、内需用の製品が見られなくなりました。

       伊万里磁器は、輸出製品の製作を期に作風に大きな変化がおきます。17世紀前半では中国染付の影響が大きく、中国磁器輸入の最盛期であったのが、後半では輸入が止まり、ヨーロッパ向けの輸出磁器が有田で量産されるようになります。染付に対して赤絵、色絵磁器も技術が上質のものとなり、寛文から元禄にかけて最盛期となります。中国色絵磁器には見られなかった新しい作風のものとしてヨーロッパ世界から注目をされるようになります。
      内需用も染付から色絵だけの錦手(注)、染付の上に色絵を併用した染錦手が焼造されるようになります。

      (注)錦手とは釉上にあらゆる色のガラス質の透明性の上絵具で彩画したものです。昔は上絵がなく染付だけのものでも錦のように複雑で美しい文様のものは錦手と呼んでいたようです。古伊万里錦手には釉下に染付の絵のあるものが多く、これを特に染錦ともいいます。


    協力:西宮市笹部桜コレクション(白鹿記念酒造博物館寄託)
    Last Update : Oct.23,2000