杉元仁美
酒ミュージアム(白鹿記念酒造博物館)学芸員
この菓子型は干菓子の一種「落雁」【らくがん】の菓子型である。「落雁」は米、糯米、粳米、麦、大豆、小豆などの穀物を鍋で炒り、砂糖、飴などを加え練り、型に押し出し乾燥させたものである。「落雁」は中国・元時代の「哈耳尾」【ハルウェー】といわれる回教徒の食べ物が原型で、これが明時代の中国菓子の「軟落甘」【なんらくかん】であろうといわれている。
記録としては、文禄2年(1593)の『合類日用料理指南抄』には作り方が記載しており、正保5年(1648)『松屋茶会記』の3月25日の献立には「ラクカン」とある。『類聚名物考』(宝暦3年〜安永8年・1753〜1779)山岡浚明【やまおかまつあけ】には、
「今らくかんと云菓子有、もと近江八景の平砂の落雁より出し名なり。白き砕米にて黒胡麻を村々とかけ入たり。そのさま雁に似たれば也、形は昔の洲浜のさまたりしが、今は種々の形出来たり、かかるものといへども、その初は故由有しが、後はとりうしなへる事多く、その名同じく物異に変るもの也。」
と変遷の由来を説明している。
『嬉遊笑覧』(文政13年・1830)には、
「『朱子談綺』に軟落甘という癪の名なり、この軟字を略して落甘といひしややがて落雁と書こととなれり(略)」
「落雁」の名称の説はこの記録以外にいくつかの説が言われている。一つは本願寺の綽如上人が北陸巡錫のおり、この菓子を出され、白地に黒胡麻の点々と散じたのは、“雪の上に雁の落ちる風情に似ている”とて「落雁」と名づけた説。一つは文禄の頃(1592〜1595)有栖川宮の命で、後陽成天皇に献上したところ、大変喜ばれ、“白山の雪より高き菓子の名は四方の千里に落つる雁かな”という御製と封印を賜ったの説がある。
中国から日本へ渡ってきた年代ははっきりしないが室町中期から末期にかけていくつか述べられているため、「落雁」は室町時代にはあったといえるでしょう。