笹部桜考(29)

    笹部新太郎氏のこと(10)
    (17期・1887-1978)

    荘川桜その後(新たな桜守の誕生)

     
    在りし日の佐藤良二さん

    小林一郎
    (78期)



      幹にすがって号泣する村人の姿に心を動かされたのは笹部氏だけではなかった。工事の始まる前から毎日この土地の変りようを見続けて来た人がいた。国鉄の路線バスの車掌であった佐藤良二さんだ。毎日の業務で国道156号線を通る。御母衣ダムの完成に驚き、荘川桜の移植に感激し、村人達の姿に人生観を変えられた。桜という木がこんなにも人の心を動かすものか。彼は自分の人生を桜に捧げると決めた。毎日通る自分の路線の両側を桜並木にしてみせよう、もっと伸ばして名金線(名古屋〜金沢間266キロ、日本一長いバス路線)を30万本の桜並木にして日本海と太平洋を桜で繋げよう。そう決心してからは休日はもちろん業務の終った後の時間をすべて桜に注いだ。園芸の勉強をし、荘川桜の種を貰い受けると庭に苗床をつくり、自分の乗るバスに苗を積んでは縁道の民家を軒並み訪ねて植樹の許可と管理を頼んでまわった。

      最初冷ややかな目で見ていた同僚や家族も数年後に小さな花をつけ始めた桜をみると段々と協力的になってきた。新聞が彼のことを取り上げると方々から協力の申し出があったが、それは返って彼を忙しくしてしまった。休養を取るひまがなくなり、約束を果たすため嵐の夜中に軽トラックで遠方まで往復するといったことも度々であった。

      昭和45年には神戸岡本に神様と仰いでいた笹部新太郎(当時83歳)を訪ね感激の握手を果たした。小説「桜守」の主人公弥吉が大好きで自分も弥吉の様に生きたいといっていた。体調が思わしくなく名古屋の病院へ検査に行ったときには既にガンに蝕まれていた。(昭和51年没。享年47歳。それまでの12年間に2000本の苗を植える)佐藤さんが亡くなられた後も意志は受け継がれ、国道沿いに桜は植えつづけられた。何時しか国道156号線は「さくら道」と呼ばれるようになり、佐藤さんを顕彰する碑も建てられた。

       
      満開の荘川桜の下に
      集う村民たち
      荘川桜移植の物語、佐藤良二さんの物語は後に文字どおり「二本の桜」「さくら道」という物語になり、小中学校の国語の教科書に取り上げられて多くの児童生徒の心に刻まれることになった。また映画「さくら」文部省推薦(佐藤良二物語といえる。篠田三郎、田中好子主演)がつくられ、テレビでも放映され多くの人々に感銘を与えた。

      志半ばで倒れた佐藤良二さんではあったが、彼の始めた桜運動は官主体ではあるが今も続き、荘川桜の苗木も各地に広く伝えられているし、地元では「さくら道マラソン」「さくら道ツーリング」などのイベントがすっかり定着している。


    Last Update : Mar.23,2000