水上勉氏と大阪造幣局「通り抜け」にて (昭和43年) |
小林一郎
(78期)
1958年 (昭33) | 71歳 | 自伝「櫻男行状」を出版。 離婚後別居していた妻梅子が交通事故で死亡。 |
1960年 (昭35) | 73歳 | 大阪北区から神戸岡本に転居。 御母衣の荘川桜移植を行う。 新居の庭に笹部桜が芽生える。 |
1961年 (昭36) | 74歳 | 荘川桜が活着、移植の成功が全国的に話題となる。 向日町の桜苗圃が名神高速建設工事の為取り壊される。 |
1963年 (昭38) | 76歳 | 文芸春秋に「桜を滅ぼす桜の国」を掲載。 小林秀雄氏の訪問を受ける。 |
1964年 (昭39) | 77歳 | ショパンの生家(ポーランド)に10種類の桜の苗木を送る。 |
1965年 (昭40) | 78歳 | 吉野山に「頌桜の碑」を建立。 笹部桜が5年目で花を咲かせる。 |
1966年 (昭41) | 79歳 | 水上勉氏の取材訪問を受ける。 神戸新聞平和賞の文化賞を受賞。 |
1967年 (昭42) | 80歳 | 西宮市民文化賞を受賞。 毎日新聞に『櫻守』連載はじまる |
その後も白洲正子氏の取材訪問、前回取り上げた佐藤良二氏の訪問など、桜そのものよりも笹部新太郎本人へと世間の興味は移っていった。 小林秀雄氏の訪問については、当時鎌倉在住の文人達の間で桜の話が出た時、大佛次郎が小林秀雄に「櫻男行状」を示して面白い男がいるぞと言ったのがきっかけだったとか。その対面は数時間一方的に桜の話を次から次へとする笹部氏に対して小林秀雄は終始無言で、最後に笹部氏の話が愚痴っぽくなってくると「恵まれた経済状況で、一生好きなことをやってきて何の文句があるものか」といった意味の言葉を発したという。後にも「笹部さんは上方にしか生まれない人だ」と意味深長な言葉を周りに洩らしているが何となく小林秀雄らしく、また笹部新太郎らしい会見の様子がうかがわれる。
そしてその小林秀雄から話を聞いて興味を持った水上勉が笹部家を訪ねることになる。数度の訪問と亦楽山荘はじめ何ヶ所かの取材の後に毎日新聞で小説「櫻守」の連載が始まったがこの小説は水上勉の作風の変遷上でもエポックメイキングな作品になったのではないだろうか。
「櫻守」は好評で連載終了の翌年に新潮社から出版され、昭和51年5月から今度はNHKの銀河ドラマとしてテレビ放映され、広く一般の人々の話題に上ることになった。笹部新太郎89歳のことである。
後日談になるがヒロイン役の女優、山本陽子はこれがきっかけで桜に親しみを覚え(社)日本さくらの会の行事に参加したり、放映後20年近く経っているにも拘わらず笹部新太郎ゆかりの岡本南公園の桜守会に活動資金を寄付したりもしている。