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小林一郎
(78期)
マスコミ関係では笹部氏の後半生に新聞記者として親しく交わった北野栄三氏が居られる(61期、京大・阪大、毎日新聞、毎日放送、現和歌山放送会長)。今年(2000年)3月にこれまでの著述を纏めた『メディアの人々』を毎日新聞社から出版され、その出版記念会には各界から錚々たる人々が集まった。『メディアの人々』にも笹部氏について二編の文章が入れられているが、以下は1982年に白鹿の笹部コレクション特別展に寄稿されたもので、当時の社会、マスコミ、また笹部氏の素顔が窺える格好の文章なので少し長くなるがここに引用させていただいた(肩書き等、当時のまま)。
なお北野栄三氏、久野友博氏、山本次郎氏(六稜同窓会副会長・弁護士)の三者が笹部桜、笹部新太郎についての鼎談を行ったものが六稜会報20号に特集として組まれているが、ここにも興味ある話が載せられている。同窓会ではバックナンバーのデジタルアーカイブ化も進められていることからWEB上でも読めるようになる日も近いものと思われる。
北野栄三(毎日放送開発委員会事務局長)
新聞記者の中に鈴木番とか田中番とかいう記者がいることは、いまではよく知られるようになったが、大阪の新聞社ではひところサクラ番記者がいたことがある。政治家の番記者は、自民党派閥のいわゆる大物に密着して、その一挙手一投足から政界の動きをさぐるが、こちらはそれほどなまぐさいものではない。春になってサクラだよりが新聞にのるようになるころ、きまって社会面にその年にふさわしいサクラの話題がのる。花鳥風月はいまでも新聞読者の歓迎する記事になるが、いまよりも格段に事件の少なかったころは、これがなかなか大事な仕事だった。仲間うちでは、そういう記事を書く記者をサクラ番と呼んでいたが、往々にしてこれがそのまま笹部番を意味した。大阪ではサクラの記事を書くならまず笹部さんのところへ行くのが普通だったからで、毎日にも朝日にもそうして笹部邸へ足を運んだ記者がいたはずである。しかし、サクラ番が活躍した牧歌的な時代はしだいに遠のいて行き、笹部番もまたいなくなってしまった。社会部の記者のころ、私もいつからか笹部番の栄誉をになうことになったが、私の社には笹部番としては山口広一氏(故人)という先輩がおられた。演劇記者として評論家として一家をなしていた山口氏は、上方芸という共通の趣味もあって笹部さんとは最後まで親しかったし、笹部さんも山口氏の書くものがヒイキだった。政治家のうちには、日ごろ顔を合わせている番記者でないと、うちとけて取材に応じないという人もあるが、笹部さんにもいくらかそういうところがあった。私が現場に出なくなってから若い記者を笹部さんの取材に行かせたことが何度もあるが、よく、その直後に電話がかかってきて「山口君などにくらべて・・・・・」と記者の勉強不足を叱られた。そういうとき笹部さんが会いたがっているものと察して、私が入れかわりに出向くことも多かったが、たいてい終電車ぎりぎりまで解放してもらえなかった。若い記者たちにはそういう辛抱がむつかしかったようである。しかし笹部さんの長談義につき合ったおかげで、私はサクラについてよりも、それ以外のいろいろの話を聞くことができた。そのなかには古い新聞社の話もよくでてきた。満州事変の直前に、満州問題について参謀本部の建川義次情報部長と朝日の高原操編集局長が大阪クラブで論争した話、とくに親しかったらしい城戸元高氏(毎日新聞元会長)や河野三通士氏(同役員)らとの交友談は、新聞社の中でも聞くことのない歴史だった。
そういう笹部さんが私だけにしらせてくれた話から特ダネといえるものもいくつか書かせてもらった。「ちょっと相談したいので大阪クラブで会いたい」と電話がかかってきたのは向日町の演習林売却の話だった。「いっしょにダムを見に行ってほしい」といわれて同行したのが御母衣のサクラの移植の記事になった。いま古い新聞をくってみると、この二つの記事は36年の4月と5月にのっている。一つは道路公団が名神間に走らせる高速道路のおかげで笹部さんの「桜の園」がドライに斬ってすてられるという話で、もう一つは電源開発というよく似た組織がダム建設で消えるはずのサクラのいのちを守るという話である。正反対の意味あいをもった事件が相ついで起こったのは、いま思えばやはり当時の日本の世相を反映している。日本中が国土開発ブームにわく一方で,環境問題がそろそろ起こりそうな気配があった。笹部さんの90年の人生は、こんな意味でも日本の歴史のある断面をしめしていたといえぬことはない。新聞記者としてその人物と仕事にふれることができたのは幸運なことだったと思う。