移植する御母衣の桜の前で 庭正造園の丹羽政光氏と(昭和35年) |
御母衣の桜[1]
小林一郎
(78期)
現地へ行ってみると写真で見た桜の他にもう一本巨木が残っていた。42トンと38トンのどちらも同じエドヒガンという品種の二本の移植となった。このニュースが流れると、金は要らないから是非やらせてくれという園芸業者が現れた。豊橋市の庭正造園の丹羽政光氏だ。最初はぎくしゃくとしていたが後には丹羽氏と笹部氏がうまく協力して移植作業を進めることができたのは、桜に対する欲得を離れた愛情からであろうか。丹羽氏は工事中も移植後も頻繁に現地を訪れ、少し身体の不自由になってきた新太郎に代わってアフターフォローも万全に行なった。工事の一番の難関は枝切りや根回しではなく42トンの桜を吊り上げ1キロの坂道を自走するクレーン車のためのしっかりとした道路作りだったという。
難工事が終り、あとはうまく活着するかどうか翌年の春を待たねば結果はわからない。笹部新太郎、丹羽政光、高碕達之助ほか関係者はただ祈るばかりだった。
【略歴】明治18年高槻市に生まれる。府立4中(現茨木高校)在学中、政治地理の授業で「日本の将来は水産資源にかかっている」と教えられ、生きる道を決める。首席で卒業後、水産講習所(現東京水産大学)に進む。東洋水産に就職。アメリカ、メキシコに研修。東洋製罐を設立。満州重工業副総裁。敗戦後戦後処理問題に尽力する。吉田総理の要請で電源開発公社総裁になる。鳩山内閣、岸内閣で経済企画庁長官、通産大臣を歴任。バンドン会議、日ソ漁業交渉日本代表等など。
氏について色々調べてみると常に国民のため無私の精神で事に臨んでおられたようだ。会社を起こしたのも、代議士になったのも。いまどきの保身と蓄財を旨とする政治家とはまったく違うタイプだ。外国との交渉も常に本音で対し、つまらない遠慮や手管は使わなかった。かえってそれが好感を持たれ、良い結果をもたらした。いまでも中国外交筋では高碕先生は一段と高いランクに位置づけられている。戦後初めて周恩来と話をした日本人としても知られる。茨木高校では川端康成、大宅壮一とともに出身OBとして必ず出てくる人物である。