笹部新太郎さくらコレクションの陶磁器類の中で、多数を占める桜花文盃は、まさに100点をこえ、日常品から高価な美術品まで、実にバラエティに富んでいる。
<さかづき>の変遷
はじめて「さかづき」の言葉が使われたのは「古事記」より須勢理毘売命【すせりひめのみこと】が旅立つ大国主神に大御酒坏を挙げ歌った記事が最初である。そして、大国主神と須勢理毘売命は「宇伎由比【うきゆひ】をなさった」とある。「宇伎由比」の「宇伎」は「盞」【さかづき】、「由比」は「結」で「ゆふ」という言葉から来たのである。
一つの盃を二人で飲んで夫婦の契をなさったのではないだろうか。この風習は今日の婚礼時に残っている。
「日本書紀」では景行天皇18年8月の条に盃を「浮羽」【うき】と異名で表している。
「万葉集」には
春日なる 三笠の山に 月の船
出づ遊士【みやびを】の 飲む酒杯に 影に見えつつ
三笠山に月の船が出た。月下の宴に集う風流を知る男たちのさかずきに、その影をうつして。
酒杯に 梅の花浮け 思ふどち
飲みての後は 散ぬともよし
梅の花をさかずきに浮かべ、楽しい仲間たちと今宵の宴に大いに楽しんだのちは、梅の花よ、散ってもよろしい。
とさかづきの語の古さがわかる。
「さかづき」の「さか」は酒で、「つき」は土笥【つちけ】が略されたもので、笥【け】は「うつわ」という意味である。したがって酒杯本来の意味は酒を盛る土で作られた器という事である。酒杯は土器【かわらけ】であったことがわかり、平安時代まで継承された。
『倭訓栞』【わくんのしおり】(安永6年〜明治20年にかけて刊行された国語辞典)より
「古へより礼に必ず土器を用ひ来れり、倭名抄にも瓦器の類に入れたり、 さればいまいふかはらけなり、漆塗は中世以来にや…(略)」
伊勢貞丈著の故実書(宝暦3年〜天明4年まで日々記載した雑録)である『貞丈雑記』【ていじょうざっき】では
「古は祝儀にも常に皆かわらけなり。さかつきという事は近代のことなり。 今も盃を朱ぬりにして、うすくひらたくするはかわらけをまなびたる物なり」
室町期頃までの古い絵巻物の酒宴献酬の場面では、瓶子や銚子、土器【かわらけ】、木盃を描いたものがいろいろみられ、瓶子からは土器【かわらけ】に酒をつぎ、朱盃、木盃は銚子から注ぐのが一般の慣しだったようで江戸時代まで続いた。江戸時代に入ると陶磁器の盃が出現してくる。しかし、江戸時代中期頃までは漆器の盃が中心となり陶磁器の盃は江戸時代中期からの流行である。江戸も終わりに近い頃、磁器の盃へと変化したことが喜田川守貞著の風俗画集(自ら見聞した風俗を整理分類し、図を加え詳説)『守貞漫稿』【もりさだまんこう】に記載されている。
「盃も近年は漆盃を用ふこと稀にて磁器を専用とす。京坂も燗徳利は未だ専用せざれども磁杯は専ら行はる也。磁盃三都ともに「ちょく」と云…(略)」
このように「さかづき」は土器【かわらけ】、木盃(塗盃)、陶磁器へと三転したことになる。