小林一郎
(78期)
兄から譲り受けた武田尾の山を「亦楽山荘」と名付け桜研究の演習林として整備する。 (現在この地は宝塚市の所有となり、ハイキングコースとして整備されている)新太郎のやりかたは、学者の頭と造園業者の手足を使ってと言おうか、両者の中間的な方法であった。お互いの良い所を採り合わせたというよりもお互いの足らないところを補うと言うやり方で、地位や金の心配をせずに時には趣味人の道楽的発想を元に、四角な道を斜めに突っ切るような言動は、学者からは無視、業者からは敵視される結果を度々招いた。
梅子夫人と(大正13年) |
翌年、兄が死去、選定家督相続人となった新太郎は多くの家作の管理という慣れぬ仕事に戸惑ったことと思われる。(旧民法下、兄の遺児が成人するまでの養育の責任や遺産の使い道の制限などがあった)
帝大卒の肩書きの他に政治家や華族との交流、社交界に繋がりを持った新太郎は桜研究の折々の成果を発表する多くの機会を得ることともなった。専門学会に登場することはなかったが、東京さくらの会(渋沢栄一、後藤新平らが発起人)、大阪学士会など幅広い各界のトップメンバーがあまり利害関係無く集まる場で話をすることが多くなった。
ひたすら多くの桜を見て歩き、資料を集め、実際に接木をし、園丁を育てて20年が過ぎた。「桜のことなら笹部に任せろ」と言われるようになった時、新太郎は40代も半ばになっていた。