「三宅石庵書状」大阪大学懐徳堂文庫所蔵 土橋道節に宛てたもの。中程に「去年当地大火、手前達も逢類焼候」とある |
岸田知子
(78期・高野山大学教授)
石庵は親の死後も家業を顧みないで学問に没頭。ついには財産を使い果たしてしまったが、それでも衣食を倹約すればまだ数年はしのげるといって、弟とともにひたすら机に向かい学問にうちこんだという。
元禄の初め頃、兄弟は江戸に出て学塾の看板をあげたがうまくいかず、石庵は数年で江戸を離れた。一方、木下順庵に入門していた観瀾は江戸に留まり、二年後、彼の一文が水戸公の目に止まり召され、やがて彰考館總裁となり『大日本史』の編修にあたる。さらに正徳2年(1712)38歳の時、新井白石の推薦により幕府に登用されるに至るのである。
さて、元禄10年(1697)、京に帰った石庵は、まもなく讃岐琴平の木村平右衛門(号は寸木)に招かれ、四年間その地で教授した。木村家は屋号を羽屋といい、酒造を業とし、金刀比羅宮の別当を務めた名家であった。木村寸木【すんぼく】は、家業のため京や大坂に上ることも多く、石庵と出会ったのも京都ではなかったかと推測される。木村家はこの後、長く石庵のために後援を続け、寸木の意志は、彼の息子たちへと受け継がれた。
寸木は俳人として長い経歴を持ち、石庵が泉石と号して俳諧を詠むようになったのも、彼の影響と思われる。石庵の俳諧として「真白に真四角なり蔵の月」などが残っている。
石庵は元禄13年(1701)、37歳のころ、来坂する。木村家の手引きであったには違いないが、四国と大坂を頻繁に往来する商人たちによって石庵の名が大坂に伝わり、彼を迎えようという機運もあったと思われる。石庵が最初に塾を開いた時、中村良斎(三星屋武右衛門)、富永芳春(道明寺屋吉左衛門)、長崎克之(舟橋屋四郎左衛門)などがその門にあったという。かれら好学の有力町人がさっそく入門していることからも、石庵の来坂準備は琴平と大坂の双方でなされたのではないかと思われるのである。
また、この年8歳だった中井甃庵が、儒医である父に連れられ入門の挨拶をしている。甃庵が実際に石庵に師事したのは14歳の時であった。
さて、石庵が門弟を取って教授を始めたところ、日を追って入門者が多くなった。尼崎町二丁目御霊筋の石庵の住居では狭くなってきたので、正徳3年(1713)、中村良斎、富永芳春、長崎克之、木村平十郎、木村平蔵等が計り、安土町二丁目に家を買い取り、石庵をここに住まわせた。木村平十郎、平蔵は讃州琴平の木村寸木の息子である。
石庵はここを多松堂と名づけて講義を続けた。入門の徒も順調に増えていったが、この家屋の購入資金を提出した人々の中に「徳業の利益もこれなき人」がいる、そんな人たちの世話になりたくないと、享保4年(1719)、自身で高麗橋三丁目に家を借り移転した。このころには、備前屋吉兵衛や鴻池又四郎なども入門して、多松堂はますます賑わいを見せていたが、同9年(1724)3月の「妙知焼き」と呼ばれる大火にて類焼し、所蔵の書籍や石庵の書きためた物も残らず焼失してしまった。