「学問所建立記録」大阪大学懐徳堂文庫所蔵 宝暦8年中井竹山自筆。享保9年の創設から 同11年の官許獲得に至る経緯を記録したもの |
官許学問所
岸田知子
(78期・高野山大学教授)
そのころ江戸において菅野兼山が幕府に願い出て、本所に貸し与えられた校地に会輔堂という学問所を建てた。将軍吉宗は京・大坂でも願いがあれば学問所を認める意向を持っていたらしく、それを伝え聞いた三輪執斎【みわ・しっさい】が甃庵に運動させたのである。甃庵は幕府との関係を好まない学主三宅石庵には内緒で運動したが、結果が出るまでは長くかかった。甃庵は享保9年冬、江戸の執斎に会いに行き相談の上、帰坂して石庵の黙許を得た。翌年5月、道明寺屋と備前屋を伴い江戸に行き、甃庵だけは10月まで滞在。さらに11年春にも江戸に行き、やっと将軍側近を通じて出願の趣が聞き届けられた。
4月に正式に大坂町奉行所へ出願し、それに対して幕府は学舎の所在地である尼崎1丁目の道明寺屋所有地(間口6間半、奥行20間)と、その東隣の尼崎屋所有の空き地(間口5間、奥行20間)を合わせて校地とし、諸役免除の恩典を与えた。
その結果、学塾としての権威や税の免除などの利益を得られるようになったが、奉行所との交渉や諸手続きといった事務的な仕事が出てきた。それを執り行うのが預り人で、幕府から学問用地を預かるというのが原義である。授業を兼任することもあった。今風にいうと学主は学長兼教授、預り人は事務局長といえよう。中井甃庵は初代預り人である。創設時には預り人の下に実務を扱う支配人が置かれていて、道明寺屋の手代新助がその任に当たっていたが、新助の亡くなった元文2年(1737)以降は、支配人を置かず、預り人が実務も担当するようになった。
官許学問所となったとはいえ、財政面は五同志が責任を持ち、以後も同志と呼ばれる町人たちによって幕末まで運営され、大坂の人々は懐徳堂を学校、あるいは今橋の学校と呼んで親しんでいた。