再建前の「懐徳堂図」 大阪大学懐徳堂文庫所蔵 |
五同志
岸田知子
(78期・高野山大学教授)
三星屋武右衛門 姓は中村、名は睦峰、号を良斎といった。延宝2年(1674)生まれ。安土町に住み、貸家業を営んでいた。当時50歳で最年長。五同志のまとめ役となった。
道明寺屋吉左衛門 姓は富永、名は徳通、号を芳春といった。貞享元年(1684)、尼崎町一丁目で漬け物屋をしていた家に生まれ、彼の代になってから醤油の製造を始めた。江戸での醤油の消費増加により成功し、その家に隣接する持ち家を懐徳堂の堂舎に提供した。後に述べる大阪が誇る思想家富永仲基(とみなが・なかもと)はその子である。
舟橋屋四郎右衛門 姓は長崎、名は克之、号を黙淵といった。詳細は不明である。北堀江で江戸積毛綿問屋をしていたと思われる。
備前屋吉兵衛 姓は吉田、名は盈枝、号は可久、または養斎。元禄3年(1690)生まれ。材木問屋、あるいは舟板問屋であったという。国学も好み、連歌をよくしたという。
鴻池又四郎 姓は山中、号を宗古といった。生没年は不明。堺の生まれであるが、二代鴻池善右衛門宗利の養子になり、三代宗誠の娘と結婚。日本有数の豪商鴻池の分家として今橋二丁目に住んだ。大名家の蔵元を勤めるなど、五同志の中でも最も裕福な家であった。
当時、大坂では一定の資産ができると商売をやめて、貸家や金融業で暮らすのが理想とされた。それを仕舞多屋【しもたや】という。懐徳堂創設のころ、三星屋や鴻池はすでに仕舞多屋となっていた。他の3軒は問屋や製造業の盛業中ではあったが、実務は番頭に任せ、学問に身を入れることができるほどの大店であったと思われる。
町人に学問は不要とされていた大坂に好学の風が起こってきたのは、大坂の経済力の向上が大きな原因であったといえよう。大坂の富裕な町人の中には、娘の嫁入りに漢籍を持たせるほどの家も出てきた。道明寺屋富永芳春の妻、すなわち仲基の母も和漢の教養深い女性だったという。