松村 博
(74期・大阪市都市工学情報センター常務理事)
十三橋は、橋の北側で分岐して豊中、池田を経由して能勢へ向かう能勢街道のルートにもあたっていましたが、放射路線の1つとして大阪池田線が整備されることになりました。橋の幅は一挙に20mになり、スパンが65mもあるアーチが5つ連ねられた巨大な橋が出現しました。長さは大橋が約681m、小橋が25mです。川の中の橋の形式は、上下の鋼製アーチ部材をあやとりのように斜めの部材で結んだブレースドリブタイドアーチと呼ばれるものです。また両岸にはゲルバー式という鋼桁が採用されています。両方で6200トンを越える鋼材が使われました。
アーチを支える基礎には、深さ25mのニューマチックケーソンが用いられています。これは圧気をかけながら中の土を掘って徐々に沈めていくもので、健康管理を十分にしないと潜水病を起こす危険がある難しい工法です。
現場の工事は昭和5年1月に始められ、若干の手違いもありましたが、7年1月に無事完成しています。今から考えても驚異的な速さです。総工費は約200万円であったとされています。これほどの規模の橋の建設にたずさわった人達は誇りに感じたのでしょう。工事関係者の名前を刻んだ銘板が大橋の南西端の壁に取り付けられています。そして工事中の作業の様子を記録した写真集も刊行されています。
この橋には技術上の見所もたくさんありますが、詳しいことは省きます。またデザイン上の工夫にも面白いものがあります。十三大橋の高欄は鋳鉄製の立派なものですが、この意匠がアーチ両端の橋門構の装飾と同じモチーフになっています。
また袖高欄には機械の内部を表したような歯車模様のパネルがはめ込まれています。大阪の工業発展を象徴する意図があったのでしょうか。橋には設計担当者が人知れず工夫した跡が残されているものです。それを発見するのも橋を見る楽しみの一つです。
また蛇足になりますが、北野中学が現在の場所へ移ったのは、昭和6年4月のことですから、新しい橋はまだ完成していませんでした。引っ越しのとき、机や椅子を生徒達が運んだということですから、橋の工事を横に見ながら狭い十三橋を渡ったのでしょう。