【連載】大阪の橋
第2回●十三大橋(2)
十三の渡
松村 博
(74期・大阪市都市工学情報センター常務理事)
十三の中津川の渡河点の輪郭がはっきりしてくるのは、江戸時代になってからのことです。元禄時代(1688〜)に出版された『摂陽群談』には「十三済【わたし】」のことを、「西成郡新田村から堀村に渡る所である。本庄済の下の渡(成小路【なるしょうじ】あるいは小島の渡)ともいう」と書かれており、江戸時代前期にはすでに設置されていたことになります。
十三という地名は成小路村の字名の一つに過ぎませんでしたが、成小路村は新しい淀川の河川敷になってしまい、その名前すら痕跡を留めていません。この渡は中国街道筋に当たっていましたから、西国の大名のいくつかが参勤交代の際にここを通って大坂へ向かうこともありました。大名行列が川を渡るときには、周辺の村人は手伝いに出なければならず、大変迷惑だったことでしょう。
明治新政府は明治9年に全国の道路制度を定めますが、旧来の中国街道は大阪の高麗橋を起点として広島に至る国道26号線の一部となりました。そして十三の渡の営業許可は、あらためて地元の成小路村の村長に認められることになりました。このころの渡賃は、「人=2厘、牛馬=5厘、人力車=2厘、籠=2厘」などとなっていました。そして1日およそ500人の利用者があったようです。
Last Update: Jun.23,1998