松村 博
(74期・大阪市都市工学情報センター常務理事)
十三の辺りには大阪から尼崎をへて神戸方面へ至る道が、相当古い時代から通っていたと考えられます。古代にまで溯る証拠はありませんが、室町時代には開かれていたと推測されます。『太平記』巻三六に後の中国街道と同じような道があったことを思わせる記述があります。
南朝軍を率いていた楠木正儀【まさのり】(正成の三男)は、正平16年(1361)に北朝方の混乱をついて渡辺の橋を渡って天神の森に陣を進めました。摂津の守護・佐々木道誉【どうよ】の嫡孫秀詮(ひでのり)は神崎の橋を阻てて防戦しようとしましたが、守護代の吉田厳覚【げんかく】は敵を侮り、橋を渡って攻撃をしかけます。正儀らは策略をもって敵軍をはさみ打ちにし、一部を中津河の橋爪に追いつめて討ちます。秀詮は神崎の橋のあたりまで落ち延びてきましたが、橋の一部を味方が切り落としていたために戻ることができず、戦死を遂げてしまったということです。
ここに記された「中津河の橋」を十三の辺りとしますと、渡辺、十三、神崎と後の中国街道の道筋に一致することになり、この街道の歴史が少なくとも中世にまでさかのぼることができます。そして『太平記』の記述をそのまま受け取りますと、当時は中津河に橋が架けられていたことになります。しかし、『太平記』の記述には劇的な効果を高めるために、誇張した表現がしばしば見られることから、中津川に橋が実在したと断言するわけにはいきません。