われら六稜人【第47回】「スタンダード・プラス・ワン」

大庭さんの現在の写真大庭さんの高校時代の写真第1簡
昭和元年生まれ達

    生まれたのは、昭和2年1月20日。昭和元年は12月25日に始まり31日に終わったので、3週間遅れで昭和元年に生まれ損なったわけです。この学年は大 正15年生まれと、ごく少数の昭和元年生まれと昭和2年早生まれがいます。いわば昭和元年生まれの学年なんだけど、肝心の元年生まれは極めて少ないという 特別な学年です。私も元年生まれ達の一員ということで、関大を70歳で辞めた記念に作った雑文集のタイトルを『昭和元年生まれ達』としました。

    小学校入学の頃
    小学校入学の頃

    出生地は正確には京都の病院でね。生後3ヶ月で池田に来て、小学校は池田師範の付属です。昭和14年に北野中学に入学しました。手塚治虫も1年下で同じ付 属から北野というコース。17年に箕面に転居しました。通学の電車の窓から、ずっと田圃が広がってるのが見えてましたね。

    北野の百周年記念文集に頼まれて思い出を書いたことがありますが、注文がついてね、北野に行ってよかったかという質問でね、しょうもないこと聞くな、思い ましたね(笑)。だって、それ以外、オレの人生はないわけでしょ。選択肢が他にあったわけではないし、やり直しがきかないから。よそから転校してきたら別 ですけど、良し悪しを比較できないもの。

    北野の授業ではやっぱり歴史が好きやった。それから英語ね、英語はたたきこまれました。茶ビンいうあだ名の先生がいて、名前は何やったかなあ、この人怖い ねんけどね、徹底的に文法をたたきこみはった。これは生きてるよ。関係代名詞はこうやないといかんとか、そこで完全にたたきこまれてるから、あとあとよ かったと思ったことが多いです。
    クラブは剣道部でした。剣道は私にとってよかったですね。3歳で父を亡くして母親育ちだったもんだから、そのせいか物事の決断力が余りなかったんですが、 剣道はここいうチャンスに打ち込むでしょ。あれが身に付きました。冬の寒稽古には二番か三番かの早い電車で行きました。一年のときは、寒稽古のあと、授業 までの間におかゆが出ました。七草がゆみたいな菜っぱの入ってるのがね。二年生あたりでは出なくなりましたが、食糧統制のせいでしょうね。
    それから、歴史か美術史か、クラブの名前を忘れたけど、一年上に川原という詳しいのがいて、それにゾロゾロくっついて行って、焼ける前の法隆寺の金堂を見 ました。中学3年の時に。それがね、暗くてね、地元の子供らが手の届く限りひっかいた痕が壁についてる。きたないなあと思ってね、これを川原が言うみたい にきれいやと思うことができんとあかんのやったら、僕はあかんというわけで辞めました。今やったら汚いのが当たり前やとわかるんやけどね。

    旧制高等学校時代
    旧制高等学校時代

    勤労動員では橿原神宮を作りに行きました。今、あそこの宮司に会うて、これワシ等が作った言いますねん(笑)。八尾の飛行場の土掘りとか、服部緑地も作り に行きました。工場への動員は高等学校へ進んでからです。

    大学時代、京都の南禅寺福地町に下宿してたら、その下宿の向かいが稲畑はん(56期稲畑勝雄同窓会長、われら六稜人【第31回】所収) のお宅やった。稲畑さんは1年上でしたんやけど、北野では知らなかったんです。たまたま電話を借りに行ったとき、僕が北野のバックルをしてたのが見えて、 それで、あんた北野かいないうことで。あのころ、北野の校章入ったバックル売ってたんです。今なら学校グッズいうのかな、あれはいいですよ。うちの大学も スポーツタオルとかマグカップとか作ってますけど、北野も作りはったらええんや。

Update : Nov.23,2001

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