「つばめガール」制服姿 |
第3章
気がつけば花形職業に…
北野を卒業する時に北原先生が就職担当で(後に桜塚の校長先生しはりましたけど…)、私に商社へ行けって言わはって。それで、そこを受けて通ったんです。 入ったら総務部用度課いうところへ配属されました。社員が「出荷伝票何冊欲しい」いうたら地下の倉庫へ行って持っていったり。またそれが面白なかったんや ね(笑)。
小学校から算盤習わされていて、その時に三級ぐらい持ってたの。入社試験の時「計算」の科目は一番で入った…と後で聞かされたんですが、そんなんで経理部 の課長が私をくれと言うてきはったんです。「えらいこっちゃ」と思いましてね。私、数字見たら、頭、痛うなるからあかんの。一日計算ばかりやらされたらか なわんわ思って、家で「会社行くの嫌やわ」言うてたんです。家では世代交代して主婦でなくなった母が、暇を持て余して私が会社から帰ってくる時間に塚本駅まで毎日迎えに来てるの。母は塚本の婦人会長をやってて、駅 長さんとも顔馴染みだったんです。ちょうどその頃、国鉄が特急つばめの女子乗務員を一般募集していて…それまでは国鉄内部の女性職員の中から希望者を選考 してたらしいんですけど…その募集を「受けはったらどうですか」って勧められたんですね。ちょうど私が「会社いやや」思ってた、まさにその時にね(笑)。
何の仕事すんのか聞いて、最初はでけへんと思ってたんですけどね。よう聞いたら、例えば「朝9時に出る。5時に東京着く。東京で一泊する。明くる日また9 時に出て5時に大阪に帰ってくる」そういう東京へ行ったり来たりも面白いかも…とは思っていたのですが、あんまり乗り気にはなれへんかった。応募だけはし てあったけども、試験日当日は忘れて会社に出勤していたんです。
母が駅長さんから「今日は試験日やけど行かはりましたか?」と言われたらしく、慌てて会社に電話がかかってきてね。ちょうど私も会社でまた面白ないこと あったんでしょうね(笑)。「そんなら行くわ」言うて早引きさせてもらって、梅田の大阪鉄道管理局…今、ヨドバシカメラが建ってるところ…あそこへ行った んです。もう筆記試験が始まってたけど、ダメモトで受けてみたわけですよ。その筆記試験に通って、身体検査と、面接が三次選考まであって、なんと合格した んですね。200人くらい受けて8人が採用されました。
私が北野を卒業したのが昭和28年。国鉄に入ったのはその年の7月です。入って3カ月ほど研修を受けて、それから一人立ちで乗務しました。
デイリースポーツ(昭和32年7月25日) ※「スチュワーデス」「観光バスガール」に並んで 「つばめガール」は女性の当時の花形職業だった。 |
それまで大阪-東京間は15時間くらいかかってたのが、特急つばめの登場により8時間に短縮されたんです。その客室乗務員ですから、仕事の内容はスチュ ワーデスのようなものです。ただ、飛行機みたいに飲食のサービスまではしません。食堂車にウェイトレスが別に乗っていますから「何号車の何番の人がコー ヒー頼んではる」って言いに行くだけ。後はその人が引き継いでくれます。
映画俳優とか歌手とかが乗ってくるでしょう。そのころは写真週刊誌も芸能レポーターもないしね。「あ、乗ってはるな。また違う女の人と一緒やな」とか (笑)。
乗務は4人が単位でした。1号車から5号車までが三等車で、それには乗務しません。6号車から8・9・10号車が特別二等車で、そこに1人ずつ乗車するこ とになってたんです。7号車が食堂車、最後尾の11号車が展望デッキのある展望車でした。
一旦乗務したら往復で2日かかります。帰ってきたら1日休んで…その次、また2日かかりますでしょう。2回目の乗務の後、2日休むわけです。一週間7日間 をそういうローテーションで回るわけです。東京へ着くと、宿舎は東京駅の2階にありました。単独の外出は禁止されていましたが4人一緒ならかまわない。け ど、門限が9時やったからね(笑)。たまに専務車掌さんが野球や日劇に連れてってくれたけど。朝も9時発ということは6時頃には品川の操車場に入ってなあ かんのです。だから朝は4時半頃に起こしにきはるんです。眠たかったわ、若いからね。
特急つばめと特急はとがあって、はとの乗務員は東京の人なんです。私らは大阪車掌区に所属していました。言葉使いで大阪の人間やいうのがわかるから「大阪 を案内してくれないか」と言うお客さんがいましたね。もちろんお断りしましたけど(笑)。「お嫁さんになってくれ」と言われて、行った人もいましたしね。 当時の女性の花形職業だったんでしょうね。新聞にも載りました。最盛期には20人ぐらいいたんとちがうかな。私らの一年おいた後で8人ぐらい入ってきまし たしね。それを4年間続けました。
Update : Mar.23,2001