大阪新聞コラム『世界笑劇場』 記念すべき連載第1回(1993.10.5)は 「集団出勤!タイしたオカマ」 ペンネーム:槙ひろか |
第7フライト
作家ことはじめ
- 以前スペインで知り合った女の子が産経新聞でバイトをしていて、彼女の紹介で南米の状況をレポートしたのが記事になって掲載されたんですね。わたしも元々 書くのは好きでした。それで一時帰国の時に挨拶に行ったら、今度は「大阪新聞の長期連載で、週に5回載せるから…軽いタッチで夫婦のドタバタ旅行記を書い てみない?」と言われて。
週に5回って…要するに毎日なんですよ。聞いた時は最初パニックでね。でも貴重な収入源になるし、丁度いい機会…記録にもなるし、いざ文章に書くとなる と、また見方も変わる。メモを取ったりもするだろうし、写真もキッチリ撮らなきゃなんない。「これは、やるべきだ」と思いました。結局この連載は3年近く続けさせてもらいました。途中から、大変だから週2回に減らしてもらったんですけど、最初は週5回のペースで。現地からEMSで原稿を送るんです。
まず、わたしが原稿用紙にバーっと書いて、それを東京にいる母(また父の転勤で、この頃わたしの両親は東京住まいだったのです)に送ってワープロを打って もらいました。写真もネガと番号を送って、母が大阪新聞とやり取りをしてくれたので助かりました。郵送料がかかるので記事は20本位(だいたい連載1か月 分位)まとめて送りました。
最初のうちは、それまでの3年間のストックがあるので、日記を読み返しながら…その間に起こった出来事を思い出しながら、ワ-っと書き溜めしました。ス トックが無くなってからは、毎日毎日のいろんな出来事を800字程度で面白可笑しく書いて、それに写真を付けて送ったんです。
そろそろ出さないとヤバイという時は4~5日くらい一ケ所に滞在して、夫に話し掛けられても「うるさい!うるさい!」って払い除けてました(笑)。 「ちょっと黙ってて!」「勝手にどっか散歩してきて!」もう必死でしたね。連載が始まると穴を開けることができないでしょ。もう、出さなきゃーって。
おかげさまで割と好評だったようで、最後に日本に帰国してからも、しばらくは未だ旅を続けているかのように書いていました。結局、2年と8か月連載が続い たんです。その後も「今度は『英語の失敗談』で書いてくれ…」と言われて、それも3年近く続けさせてもらいました。良い経験でした。
スーダンにて(1994) ちょうどイスラム教のラマダン(断食月)にあたり、日の出から 日の入りまでの間は、食べ物を口にできないことになっていた |
漠然と「陸路で南へ行きたいな」とか「今度は北上したいな」とかいうのはありましたが、ほとんど行き当たりばったりの放浪旅はさらに続きます。ヨーロッパ からエジプトに入って、リビアに。そうすると、スーダンやイエメンとかいう国も面白そうに見えてくるんですね。「じゃあ、行ってみよう」そういう調子でア フリカには1年半くらい滞在しました。ウガンダで日本人医師と出会い…AMDA(アジア医師連絡協議会)のスタッフだったのですが…当時、ルワンダが内戦の真っただ中で、その支援に来ていたん ですね。わたしたちも調子いいものですから、何の気なしに「手伝いますよ」って言ってるうちに意気投合してしまい、「今度、モザンビークでプロジェクトが あるから手伝ってくれないか」ということになった。
通りすがりの旅行者にどれだけの手伝いができるのか不安はありましたが、そう声をかけてくれたのも何かの縁だなと思って、とりあえず履歴書等を送ってみたら、本部からも「是非やってくれ」ということになって…。
モザンビークにて(1994) 孤児院でたくさんの子どもたちに囲まれる |
こんなんでいいんかな…と思いながら、とりあえず半年間、モザンビークのプロジェクトに参加することになりました。コーディネーター(調整員)といって… わたしたちは医療関係は全然分かりませんし、何しろ数字は苦手で会計も分かりませんでしたが、他にやる人がいなくて会計をさせられたり、物資調達で何か足 りない物を買い出しに行ったり…夫は、診療所のない村で井戸を掘ったり、診療所を建てるにあたっての現場監督などをしていました。
その他は事務処理ですよね。いろんなものが入ってくるので、その手続き処理をわたしもやっていました。とにかく人手は要りましたから。それを半年間、かなり大変でしたけど…一応、お給料を貰って仕事としてやりました。
国連の予算で実施されていましたから、それはそれで国連からは「あーしろ、こーしろ」という指示がくる。とはいえ、現地の人に言ってもなかなか思うようにいかない。板挟みで大変でしたけどね。本当に良い経験ができたと思います。
Update : Jul.23,2000