われら六稜人【第31回】次代に何が遺せるだろうか

第1映写室
わが生い立ち

    私は大正15年1月14日の生まれですから、今年満74歳になりました。兵庫県の芦屋で生まれて、すぐに京都に住んでいた祖父の所へ移りました。そこで小学校3年まで育ち、それから大阪の上六の近くへと引っ越しました。
    そこから大阪偕行社【かいこうしゃ】付属小学校に通いました。今の追手門学院ですね。この小学校は北野と同じように自由な校風の学校で、片桐武一郎という 有名な校長先生がいたことを覚えています。1学年90名、全校生徒が540名いたんですが、片桐校長は生徒全員の名前を覚えていたとのことです。昭和13 年に卒業して北野中学へ進みました。偕行社からは12~3名も入ったでしょうか。優秀な小学校だったんです(笑)。我々の学年は6クラスで293名でした。丁度、国家総動員法が公布された時代で、入学試験は国史1本でした。どういう問題だったかはよく覚えていませんが、論文形式で今のように○×式ではなく、答案用紙にとにかくいっぱい記入したことを覚えています。
    入学してほどなく、日本が徐州を占領したのを記念して「徐州陥落祝賀」の提灯行列に参加したこともよく覚えています。長坂校長が訓話の中で「本当は去年、 南京陥落の時に提灯行列をするつもりだったが、まだ時期尚早ということで今日まで我慢しておった。だから提灯は去年から用意してある…」というクダリをお 話しになって、これを聞いた全校生徒がどっと笑ったんです。
    当時の北野生の服装はゲートルを巻いていましてね。陸軍式のぐるぐる巻き付けるやつじゃなくって、いわゆる海軍式のパチッとボタンで留める奴ですから簡便でした。それで全校生徒が行列に繰り出したわけです。

    また当時は北野ラグビーの黄金時代でもありました。1年生の時に天王寺との対抗戦の応援に駆り出されて(全校生徒がですよ)見に行ったんですが、凄い試合 でノーサイド寸前に北野が逆転のトライを決めて勝ちました。その後も3年連続で全国大会に出場したりして、ボクもよく応援の練習をして花園へ出かけたもの です。
    まだ戦争の影響もそんなになくて、軍事教練なんて科目も確かにありましたが甘いもんで、体育は普通の体育をしていましたね。そうそう、今でも続いている 「断郊競走」…あれでボクは30位くらいに入りましてね。全校生徒の中で30位だから大したもので、平石先生(ピンタ)がやって来て「君は陸上部に入れ」 なんて言うんです。結局入りませんでしたがね。

    陸上をやったのは高校に入ってからですが、2年生までは剣道部に所属していました。ところが「遊び」のほうが忙しくなって…カメラに凝ったり、自転車で夙 川界隈を走り回ったりと、その程度のあどけないものでしたが…2年生で辞めました。たった2年間の剣道部生活でしたが、今でも剣道部のOB会には担ぎ出さ れています(笑)。

    当時の北野は成績順に席が決まっていて1番から順に座るんです。成績が悪い奴ほど前の方に座らされるというわけ。だから、座っている席を見ると誰が一番で誰がベッタか一目瞭然なんです。
    ボクの成績ですか?最初は300人中16番という成績で、クラスで2~3番でした。だから席も後ろのほう、いわゆる「カベツキ」でした。その後20番、 29番と下がっていって…3年生の頃は100番位まで下がってしまいました。「こりゃいかん」と思って4年生の時にちょっと勉強したら、すぐに30番まで 戻りました。北野の生徒はみな優秀でほとんど差がない、だからちょっと勉強するかしないで成績はみるみる上がったり下がったりするんです。まさに紙一重と いうやつです。
    3年生の頃に成績が下がった原因は数学が嫌いだったからです。ほかの科目は80点とか85点なのに数学だけ55点とかなんです。先生と波長が合わなかったんですね。コイモというあだ名の先生でした。


Update : Apr.23,2000

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