第11楽章
演奏家から楽団主へ
- 昭和27年6月、独立して初めて「O.S.ラテナーボーイズ」という楽団を設立。大阪ミナミの宗右衛門町に新装開店なったばかりのクラブ・サヴォイに柿落 とし楽団として出演することになりました。その年の9月にはクラブOMEGAが新装開店。早くもそのスカウト攻勢に遭い、その度にギャランティが倍々に なっていったのです。
まさに飛ぶ鳥を落とさん勢いで「月に2日は休みをいただきます」という条件も納得させました。プロの世界では自分の公演に穴をあけるわけには行きませんか ら、必ず埋め合わせの代打を入れます。これをエキストラ…略して「トラ」というわけですが、O.S.ラテナーボーイズも月に2日は学生アルバイトの小さい 編成のバンドをトラとして行かせたりしていたわけです。これは他の楽団のバンドメンからは羨望の的でしたね。高給のうえに休日をとるという発想のバンドは それまで無かったのです。この頃…友人が北尾書店にいまして『リーダース・ダイジェスト』を日本で出した有名な書店ですが、丸善と並んで外国から書籍を輸入して日本人のために販売していた会社…そこに「アメリカの楽譜を取り寄せる」よう頼んだのです。
日本ではスコアを起こすと写譜屋サンがそれを丁寧に書き写して譜面にしていたわけです。だから、たった1曲でも相当な労力と手間ヒマがかかって高価なもの になっていました。ところが進駐軍に行けば、そんな楽譜が…フルオーケストラ用のパート譜も全部揃った、グレン・ミラーとかが…「これ、演ってください ナ」といってポンと只でくれるわけです。アメリカ本国には音楽出版社というものがあって(その代表格がカール・フィッシャー社ですが)、楽譜なんかも大量 に印刷されて出回ってたわけですね。
北尾書店の彼は、すかさず「野口さんが買うものは売れるに違いない」ということで同じものを2部ずつ合計2,000冊の楽譜を買い付けたそうですが、ボクはその1,000部すべてを買い取りましたよ。その時、ボクは本当の意味での独立を果たしたように思いますがね。
昭和28年12月、これも同志社時代の知人で…宗右衛門町の「メトロ」の並びに世界最大のキャバレー「富士」が新装開店する…そこの企画室長が上野さんという方で「野口さん、今度ウチに来てくれんか?」という話になった。
スィングバンドでは大御所の先輩バンド「アズマニア・オーケストラ」や「堀田実とその楽団」「浜田元治とブルー・セレナーダス」「松岡宏楽団」が入る…と いうので、タンゴバンドに益原君という同志社の後輩のバンドを紹介し、ボクは新しいラテンバンドを結成した。それが25人編成の大がかりな日本初のフル オーケストラ楽団キューバン・サンダースです。
この時もボクは柿落としを飾ったわけですが、結構いじめられもしましたよ。「あんな学生上がりの若僧に舐められてたまるか…」というのでね。それまでは徒 弟制度で育った人しかバンドリーダーにはなれなかったわけです。その頃から大学出の学生バンドがぼちぼち世に出始めていた。
昭和28年の11月に「富士」がオープンして、翌春のキャンペーン用にとイメージソングを各バンドに発注なさったわけですが、アズマニアの東さんなんかは 「そんなもん、この俺がやってられるか」ということで無視されたし、真剣に作った堀田さんとボクのがいい勝負で…結局、ボクの作った「富士音頭」が一等特 選で大々的に演奏されることになりました。そんなことも、先輩方には面白くなかったのかも知れません。
そうして昭和29年6月、大阪での風評を聞きつけて京都の洛陽ホテルから駐留軍専用のクラブに出演の打診があったのです。詳細を聞くと「メンバーは10人 規模で良い」との由。人数的にもギャラの規模においても見合わないので丁重にお断りしましたが、執拗に交渉され「ウチ用に新バンドを結成して送り込んでく ださっても結構だ」という話にまで発展したのです。「ただし条件は、昼間に週に2回は野口さん自身の手で稽古をつけて欲しい」ということでした。
ちょうど、たまたま…その頃、大阪舞踏会館というダンスホールが閉鎖されて、専属の楽団が失業の憂き目に遭っていましたから…そのことを先方にも伝えたう えで、この失業バンドに洛陽ホテルのオーディションを受けさせることにしました。もちろんボクが指揮棒を振って演奏するわけですから、トップにはボクのバ ンドの現役を配置しましたよ。それ以下のポジションに彼等を据えた混成メンバーで臨みました。
こういう接客業に「ルックス」というのは非常に重要でね。ボクは全員に白のタキシードを着せ、胸にはピンクのカーネーションを飾って…そういう題名の唄が あるくらい、常識なんですよね、その格好は。もちろん、指揮者のボクはテールコート(燕尾服ですね)で正装です。曲は4曲しか演奏しませんでした。「あな たがたもプロなら、それで楽団の善し悪しは判断できるでしょう」と。相手は米軍の少佐でしたね。
オーディション会場に入室するなり「Formal coat! very good!!」もう、ほとんど音は聞いてなかったんじゃないか(笑)と思うくらい感動していてね。前日にも某ジャズオーケストラがオーディションを受けた らしいのだけど「あれは乞食バンドだった」というくらい…衣装はまちまちでヨレヨレのものを着ていたらしい。音は向こうのほうが数段良かったんじゃないか と思うけれど、それほどルックスというのは大事ですね。
少佐いわく「明日、最後のバンドのオーディションがある。今のところ貴方のバンドが最も良かったけれど…返事は明日の正午まで待って欲しい」そういうこと だった。「結構ですよ」そう答えて、その日は退散したのだけど…実はメンバーの中には昨日のオーディションでも演奏した、明日のオーディションにも演奏す る…というツワモノがいてね。「いやぁ、野口さん。昨日のほうが音は良かったよ」なんて言う輩がいたのだけど、結局、翌日の正午きっかりに電話があった。 「野口さん、貴方のバンドに決まりました」。
さぁ、それが昭和29年10月15日のことで「翌月1日から演奏して欲しい」というのには慌てましたね。ボクのバンド「キューバン・サンダース」は富士に 出演してる…。にわか仕込みで第2バンドを編成する必要がでてきたわけ。この時作ったのがボクの最後の楽団「リズム・エアーズ・オーケストラ」です。例の 少佐が「これはいい名前だから」ということで命名してくれたバンドで、これに初めて弦楽器(ヴァイオリン9人)を編成に加えました。日本初のシンフォニッ ク・ジャズオーケストラの誕生です。
これがまたヒットしてね。音楽専門誌『スヰングジャーナル』の人気投票に出てくるような有名な楽団は関西にはボクのバンドしか無かったんです。1位は常に スターダスト、2位はブルーコーツ。常連はいつも決まってた。みんな東京のバンドでね。ボクの「リズム・エアーズ…」は11位。ところが「ミスター野口の 楽団はwith stringsだ」ということで、あちこちの舞台に呼ばれて引っ張りだこの毎日になった。本当にこの頃は忙しかったですよ。観光バスを1台チャーターして 「明日は東に、今日は西に…」そういう暮らしでした。
その間に、例の「キャバレー富士炎上事件」が起きて…ドライなもんです。退職金などという発想にはビタ一文なりもせず、社長からは「また、いづれ再建するから…その折には帰ってきてヨ」ただ、それだけ。はい、さようなら。
仕方がないので、半分を洛陽ホテルの急編成バンドとうまく入れ替えたり、神戸三ノ宮に新しくできた音楽喫茶「コペン」の柿落としに回したりして、バンドメンの失業だけは何とか食い止めました。
京都洛陽ホテルでのwith stringsバンドが有名になって、各地の駐留軍を回ってドルを稼ぐ…という時期がしばらく続きました。貿易赤字で…外貨獲得に日本中が奔走していた時 代で、9割は日本円に換金しなければなかったのですが、残りの1割はドルのままの保有が法律で認められていましたから…そのおかげで、普通の日本人が買え ないようなものもいろいろ手に入りましたね。昭和30年以降は、富士ビューホテル(河口湖)で演奏を続け、その間に臨時に東京雅叙園観光ホテルや山中湖グランドホテルで…やはり、それぞれ米軍専用の ホテルのボール・ルームで演奏をしました。ところが、昭和32年11月に米軍の占領政策上「ホテル接収解除令」が公布され、富士ビューホテルでの契約も解 除される運命になったのです。
「さぁ、12月からまたどうしようか」…悩む間もなく、絶妙なるタイミングで、再びキャバレー「富士」から新装開店につき12月1日より出演復活の依頼が 入ります。しかも、うまい具合に…建築の遅れからオープンが12月15日に延期となり、契約上はすでに前金で報酬はいただいてましたから、それでサンケイ ホールを借りきって、みっちりと練習時間に充てることができたのでした。
ちなみに…ボクの「リズム・エアーズ・オーケストラ」は人気がありましたよ。特に六稜人に!
何しろ…先輩であろうが後輩であろうが、北野の卒業生の顔が見えたら、その時何を演奏していても「ストップ!! はい、例のヤツ!」てな具合で「六稜の星 のしるしを…」と校歌が流れるんだからね。これは有名な話ですよ(笑)。しかも場所がキャバレー・ダンスホールなんだから。皆、喜んでくれた。
Update : Dec.23,1999