われら六稜人【第27回】ある音楽家の生涯

第10楽章
師弟の絆というもの

    戦争から帰ってきて、京都の府立高校で社会科の教師をやってました。あまりにも給料が少ないのを先輩の栗林正晴さんという方が見るに見かねて「野口さん。 あんた、ヴァイオリン弾けるんやから…うちのバンドにアルバイトにいらっしゃい」そう言ってくれて、当時5,400円だった学校の先生の月給の3倍ものバ イト代を戴いてました。それくらいミュージシャンの価値が高かったわけです。正規のメンバーなら優に2万円から3万円は稼いでましたね。それだけ出演料が 高かった。昼は学校の先生、夜は駐留軍専用の東山ダンスホールでバンドメンに交じってヴァイオリンを弾くというアルバイト…の二重生活をしばらくは送っていました。 けれど、演奏が終わるのが夜の12時、家に帰れば深夜の1時…では、とてもじゃないけど寝る時間がない。朝は6時には家を出てましたからね。それでクタク タになりながら「どちらかを辞めなければならない」という段になると、誠に悲しいことながら給料の多いほうを選択せざるを得なかった。

    そうこうしているうちに、昭和26年の9月に楽団に正式に入り、その年の12月に大阪ミナミに「メトロ」というキャバレーができました。千坪の客席に千人のホステス、日本一の大キャバレーで、ここに栗林さんが引き抜かれて出演することになったのです。
    ボクはそこで3rd.ヴァイオリンを担当しました。当時、ラテン音楽が流行しはじめて…戦前はスィングバンドやタンゴバンドしかなかったところへ、ラテン ミュージック(つまりは、ルンバとかサンバ…最終的にはマンボへと至る)が流行になった。それを演る時だけは、ヴァイオリンから離れて打楽器をやらされま した。

    これはいまだにわが家の家宝として置いてあるのですが、全部ボクが手製で作った楽器です。マラカス、ギロ、カバサ…こんなものは楽器の付属、補助楽器のようにしか思われてなかったものです。ところがこれが本命なんですよ、ラテンミュージックではね。


    マラカス


    ギロ


    カバサ

    今でも楽器屋へ行けば売ってますよ。売ってるけど、椰子の実で出来ていて…とても重たくて使いものにはならない。小柄な日本人向きでないというか…。それ でボクは「もっと軽くて、演奏しやすい楽器が作れないものか」思案しまして。京都の古道具屋に行ったら瓢箪が売ってるわけです。その中からバランスといい 形といい…一番いいのを選んで、それで同じ音を出せないか…工夫に工夫を重ねて自作したオリジナルがこれ。

    これが評判を呼んでね。時代は「マンボにあらずんば音楽にあらず」というくらい、圧倒的にラテン音楽が世界を風靡したブーム絶頂期で…どうしても思うよう な演奏ができない、あちこちの楽団から注文が殺到しました(笑)。何しろラテンバンドには欠かせない楽器で、他ではどこでも売ってないシロモノだから…こ れが結構、高く売れましたね。いい小遣い稼ぎになったのです(笑)。

    楽器は売ったけど…困ったのは、一演奏家としてボクをあちこちの楽団が引き抜きに来たことです。当時は「メトロ」のほかにも「ハリウッド」「美人座」「丸玉」「オリエンタル」といった…枚挙に暇のないほど、一流のキャバレーが軒をひしめきあってました。
    「今、給料ナンボ貰ってるの?じゃ、その倍出すからウチに来てくれんか?」これにはことごとくお断りしましたよ。「お金じゃありません」と。「栗林正晴さ んのおかげで今のボクがあるんです。栗林さんに対して申し訳の立たないような不義理は死んでも冒せません」そう言ってすべて断わっていた。ところが、昭和27年春に「丸玉」さんから「野口さん。貴方はいくら引き抜きに行っても来てくれない、義理堅い人だ。ここはひとつ、貴方がリーダーとして御自分の楽団を編成して、ウチに来て戴くことはできませんかね?」そういう申し出がありました。

    これまでは一種、スタープレーヤーとしての引き抜きでしたが、今度はバンドリーダーとしてのお誘いですからね。ちょっと話が変わってくる。それで遂に栗林さんに相談したんです。「実は…こういうお話があります」と。

    「やりなさい、野口さん。それは目出度いことだ。お受けしなさい。われわれの世界で『自分の楽団を持てる』ということほど目出度いことはないよ。ウチは何 とかしてアンタの替わりを見つけるから…」そう言って喜んで出してくれました。おまけに、使っていた楽譜もご祝儀の代わりということでそっくり下さった。

    今から思うと随分偉い人でしたね。自分のことのように喜んでくれた。

Update : Dec.23,1999

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