われら六稜人【第27回】ある音楽家の生涯


海軍中尉時代

第6楽章
そして「海軍」へ…

    昭和18年10月。大学三年生の秋にかの有名な日本の歴史に残る「学徒出陣」がありました。戦争がどんどん激しくなって、召集令状で兵隊を集めたはいいけ れど、それを指揮する有能な指揮官の数が圧倒的に足りない。そこで大学の優秀な人材を投入しよう…ということになったのですね。アメリカでは、とっくに やっていました。医学部、理学部の学生は技術畑ということで除外され、文科系の学生は全員対象となりました。そして1年間の教育で軍隊の指揮官に養成され るわけです。
    学生には「25歳まで兵隊に行かなくていい」という徴兵猶予の恩典がありました。25歳で大学を卒業すると自動的に幹部候補生の資格が与えられて、一定の期間教育を受けるとすぐに将校になれます。それで軍隊を指揮するわけです。陸軍か海軍か志望を書くところがあって…ボクは「海軍」と書いた。陸軍は嫌いでね。当時の軍国歌謡に「父よ、あなたは強かった。兜も焦がす炎熱を、敵の屍 と共に寝て、泥水啜り草を噛み、荒れた山河を幾千里…よくこそ勝ってくださった。夫よ、あなたは強かった。骨まで凍る酷寒を、背もとどかぬクリークに、3 日も浸かっていたとやら、10日も食べずに居たとやら…よくこそ勝ってくださった」そういうフレーズがありましてね。「おい、どうする。陸軍へ行ったら 10日も食べれんらしいぞ。背もとどかん溜め池に3日も漬かり放しやて。そんなん、かなわんなァ」と(笑)。
    その点、海軍なら軍艦勤務ですから…ベッドと食料は必ずついてます。それに軍艦同士の艦隊戦というのは…もちろん大砲がどんどん飛び交う激しいものですけ ど、実際の接近戦というのは60分もないんです。だから24時間連続の交戦というのは基本的にありえない。一波、二波と間断なく続く飛行機からの攻撃は別 ですが…。そのうち弾丸がなくなり、食料がなくなり、燃料もなくなったら…また夫々の基地へ帰らなあかん。その行きも帰りも…ベッドと食事は保証されてる わけでしょ。「こら断然、海軍のほうがええナ」と(笑)。

    そういう単純な理由でした。結局、ありがたいことに海軍への志望がかないまして、ボクは呉の大竹海兵団へ配属されました。最初の2ヶ月間は二等水兵から始めて、その後、士官を養成する学校の試験を受けて予備学生になるんです。
    当時、新兵を養成する海兵団は呉のほかに横須賀、佐世保、舞鶴にありました。合計すると2万人ぐらいの兵隊がいて、とても兵舎に入りきらないので各々の場 所に第二海兵団が作られました。横須賀の第二海兵団は地名をとって武山海兵団と呼ばれ、呉が大竹海平団、佐世保が相之浦海兵団。舞鶴だけはそのまま舞鶴第 二海兵団でしたね。そこでみんな新兵教育を受けたわけです。


    軍容査閲の様子(S19年。武山学生隊のもの)

    まず飛行機乗りが選別されました。身体検査で、体をその場でぐるぐる回されて…ぱっと瞬間に止まれるかどうか、回された直後でも方向感覚が麻痺していない かどうか…要するに三半器管の丈夫な人間が「飛行機乗り」としての適性を認められて選りすぐられたわけです。消耗戦で熟練パイロットが欠乏していたため に、緊急にその補給が必要だったのですね。3,000人ぐらいがこの「飛行機」へ回されました。彼等は霞ケ浦海軍航空隊と土浦海軍航空隊とにそれぞれ配属 されたはずです。
    次にあったのが音感試験です。いわば聴力試験。ここで450名が海軍対潜学校へと選別されました。対潜学校とは、文字どおりの「対・潜水艦戦の教育の学 校」で浦賀の久里浜にありました。横須賀市で、ペリーの黒船が上陸したところですね。そこで、いわゆる現在で言うところの「ソナー要員」としての訓練を受 けるわけです。この試験というのが、ボクにとっては実に簡単なスカみたいな問題でして(笑)。
    だいたい50人ぐらいが出身学校ごとに固まって試験を受けたんですが…「音楽の試験がある」と聞くと、同志社の奴が「野口。お前、真ん中に座れ!」言うて ね。さっさと終わったボクの答案を、隣の奴がこっそり奪って行ってね…みんなで回し見してるんですよ。だから、ボクの周りの奴はみんな対潜学校へ来ました (笑)。聴音試験なんか解るはずない…というようなラグビー部とか相撲部の奴とかね。「これ…見つかったらえらいこっちゃ」とボクは一人で青くなってまし たけれど。

    当時の日本海軍の戦略は、とにかく大きい大砲を使って、猛訓練で弾が当たればいい…という感じのもので、アメリカが攻めてきた場合に西太平洋で迎え撃って それに勝つ、そういう訓練ばかりしてました。これは二度の軍縮会議の結果、日本はアメリカに対して6割の軍備しか持てないという取り決めがあったわけで す。当然、これでは正面からまともに闘っても勝てませんから…攻めてきたやつを迎え撃って勝つ、という作戦だったわけですね。まず潜水艦が行って何隻か沈 め、夜になったら駆逐艦が行って魚雷でこれまた何隻か沈める、そうして最後に主力艦の艦隊決戦をやって勝てばいい…そういう具合だったんです。しかし、こ れも航空機の発達で様変わりしましたが。「水商売とデキ物は大きくなったら必ず潰れる」とはよく言ったもので、あんまり手を広げ過ぎるのは考えものでね。調子にのって攻めて行くのはいいけども、 この辺でいったんやめて次の戦力をたくわえる…という見極めこそが名将の才能です。ところが日本軍は連戦連勝をいいことにソロモン諸島まで攻め込んでし まった。当然、そこへ武器・弾薬・食料を継続的に補給しないといけないでしょ。どうも、そういうことを当時考えてなかったんですね。
    補給は商船で送りこむわけですけど、当然のことながら商船隊そのものも少なかった。当時の航洋船舶の保有量はイギリスが6,000万t、アメリカが 3,000万tに対して日本は1,500万tしかなかった。そのうえに、それが途中でボンボンと敵潜水艦にやられるわけです。補給戦に負け続けたわけで す。そうなると前線には食料や弾薬が届かないわけですから、肉体的にも精神的にも飢えてしまって…有名な「ガダルカナルの悲劇」とか「アッツの玉砕」と か…そうした悲惨なことが次々起こってきて、ようやく「これはやっぱり補給は大事や」ということに気がつき始めたわけです。

    それで、補給船団を守る護衛艦艇を急造することになったのが、なんと昭和18年のことだったわけです。軍艦には戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、掃海艇、水雷艇というような種類があったのですが、護衛するための船ということで新しく海防艦というものをどんどん作りました。
    もともと海軍兵学校の将校たちは職業軍人ですから、みんな第一線の戦艦や航空母艦などに乗船します。とても船団護衛にまわす兵隊の数が足らない…というこ とで、商船学校出の予備役士官を根こそぎ集めて護衛艦の艦長に据え、その下で働く将校として…ボクら新兵で入った士官たちが当てがわれたわけです。

Update : Dec.23,1999

ログイン