第4楽章
さようなら、北中時代
- それからこんな話もある。やはり5年生の時。昭和15年という年は皇紀2600年ということで、ちょうど今みたいに「ミレニアム」で湧き返ってました。友邦ドイツからはフルトヴェ ングラーがベルリンフィルを率いて来日する…という噂でもちきりで(これは結局、実現しませんでしたが)大変な騒ぎでした。リヒアルト・シュトラウスが 『祝典序曲』を日本のために捧げてくれたのもこの年です。
それで朝日新聞社が『紀元節奉祝大音楽会』というのを企画したんですね。「北野にはオーケストラがあるそうですが、ぜひ中学代表として出演して戴けません か」そういう声がかかりました。紀元節というのは2月11日ですからね…依頼のあったのが秋の頃で、それはもう喜び勇んで練習に明け暮れましたね。5年生 の時の成績が悪かったハズなんです(笑)。それはもう猛練習を重ねまして…『森の鍛冶屋』に『ミリタリーマーチ』『ハンガリアンダンス』の5番と、十八番 はすべて結集しました(笑)。
当日、先輩にもトラ(エキストラ=助っ人)で混じって手伝ってもらいながら、何とか無事に本番をこなしまして。音楽会が終わって大拍手のもとにステージを 去り、楽器をしまって撤収しかけた…その時、「指揮者の方、来て下さい」と事務局の人に呼ばれましてね。「今日はご苦労さまでした」そういって出演料の金 一封「10円也」を手渡されたのです。
「大変だ、これは学校に渡さなアカン…」純真な中学生は、そう思って翌日、教頭の石崎先生に「朝日新聞からこういうものを戴きました」と正直に報告しまし た。すると教頭曰く「君たちは学生のアマチュアである。それが…プロでもないのにお金をもらって演奏するとは何事か。今すぐ返してきなさい。」と大層な剣 幕でした。
ところが朝日の方も「いったん渡したものは受け取れない」と言うんでね。ボクらは途方にくれてしまって…梅田からトボトボ歩きながら、十三大橋にさしか かったところで「せや。これ…もう、ほかそか」ということになって。「さようなら~」って言いながら、惜しげもなく淀川に捨ててしまいました。
今、思えば…黙ってそれで楽器でも買っておけば良かったな、と後悔しきりなんですが(笑)。それだけ純真だったんですね、あの頃は。
当時、10円札には和気清麻呂の肖像が描かれてたんですが、彼は京都の護王神社に祭られてまして、そこの狛犬はイノシシなんですね。それで、隠語で10円札のことを「イノシシ」と呼んでました。これが「イノシシ君、さようなら」のエピソード。
その後、僕は何とか5年生を卒業して、いろんな学校を受験したんですが…何しろボクは北野音楽学校?出身で音楽以外には何もしていませんでしたからね (笑)…全部ダメで。関西学院を受けた時なんか、他のみんなは「滑り止め」で受けてるわけです。それでも結構厳しくて5人ぐらいしか通らなかったと思うけ ど、だいたい連中は「俺…早稲田は受かってると思うワ」とか「慶應いけてると思うねん」とか言うわけですよ。それで唯一、行くところのなかったのがボクで す。そら、青い顔してたと思いますよ。当時は徴兵検査があったんで浪人はできなかった。僕の希望としては、やっぱり兵隊に行く前に大学を出ときたかったんでね。大学在学中に兵隊へひっぱられる人は、仮に戻って来たとしても大抵、学校へは行かんようになるんですよ。それだけ間が空くとね。
それで、予科へ行くにも2年制と3年制があってね。ボクはできるだけ時間のかからない最短コースへ行きたかったんで、2年制の予科がある同志社大学を受けることにしました。
もっとも…何も準備してないボクは願書すら持ってなかった。そしたら「おい野口、俺…同志社の願書持っとるんや。お前、これ行って来いや。今日まで受付し てるから」そう言ってくれる友人がいて、一緒に10円を貸してくれたんです。慶應へ行った田尾(旧姓・竹内)君で、彼は最後はレナウン・ルックの社長・会 長になった男ですけどね。
それからボクは慌てて同志社の受付まで走ったよ。その日は午後からひどい土砂降りでね。5時ギリギリだったかな。そしたら同じように一人、向こうから歩い て来る奴がいてね。どうも見覚えがあるなと思ったら、それが滑り止めに受けにきてた津崎君だった。彼は若くして結核で死ぬんですが…ともかく同志に会って 「これが最後の学校やな」と確認しあいながら帰途についたわけです。
翌日に身体検査、その明くる日に筆記試験、次の日にはもう発表…という日程でしたからね。彼の実家は南海沿線で、ボクは蛍ヶ池の兄宅に起居してましたか ら…「この豪雨の中をいったん帰阪して、また明朝来るのもかなわんなぁ」という結論に達しました。「俺、金持ってるから今晩は京都に泊まろうや」と津崎君 が言い出したんです。それで、三条小橋の吉岡家という非常に高級な旅館の玄関へ、二人びしょびしょになりながら飛び込みました。
北野の制帽をかぶった中学生の二人連れが「今日、泊めて貰えませんか」と言うと、奥から出てきた番頭がね。上から下までじろーっと見回しながら「えー、手 前共のほうは宿料が5円と6円になっておりますが…」そう怪訝に言うワケです。津崎君というのが金持ちの息子で40円ぐらい持ってましたからね。「その6 円のほうに泊めて貰います」と言うと、番頭氏は手のひらを返したように愛想が良くなって「左様でございますか」と慇懃な物腰になりましたよ。
それから二人はびしょびしょのまま、廊下をドロドロにしながら部屋に上がりましてね。あらかじめ予期してなかったので靴下の替えが無い。それで明日の身体検査のために、河原町通りの靴下屋へ買いに行くことにしました。
ところがね。表通りの有名な洋品店で靴下を探すけど、みんな高いんですね。「20銭ぐらいのが欲しいんですけど」と言うと「当店ではそんな靴下は扱ってお りません」と言われて。弱ってたら「あ、これなら特別に20銭にしときます」そう言いながら持ってきたのは普通なら80銭ぐらいする上等の白の靴下。「何 でや?」って不審そうに尋ねたら「よう見てください。両方とも右足用なんです」だって(笑)。「そんなん…履いてしもたら分からんわな」ということで、そ れを買いました。
それから旅館へ戻って、夕飯を食べて、風呂に入りました。「ここの旅館、外見でバカにしやがって…腹立つなぁ」そんなことを二人で言いながら、出がけに風 呂の栓を抜いて湯を全部かき出してやりました(笑)。まったく…北中生はロクなことをしない悪戯者でしたね。次の人が困ったと思いますけど。もう時効や。
それから身体検査、筆記試験と…毎日の予定を順調にこなして行き、翌日の発表のこと。どこをどう探しても津崎君の名前が無くてね。もう真っ青になってまし たよ。もっとも彼は、その前に受けてた早稲田から合格の通知があって、気を落とす間もなく意気揚々と早稲田へ行きましたがね。
そうしてボクも同志社大学の予科へ無事に入ることができました。
Update : Dec.23,1999