われら六稜人【第27回】ある音楽家の生涯

第3楽章
そして誰もいなくなった?!

    残念なことに…ボクが2回目の1年生をやってる時にその優秀な先輩たちは5年生となり、ボクが晴れて2年生になった春にはみんな卒業しちゃったんですね。で、さっきも言ったように…その下の2学年は空白でしたから、この年の音楽部は2年生が最上回生となったのです。
    実質上はボクが中心になって活動していましたので、学年としては2年生の部長兼指揮者が誕生したことになります(笑)。しかし、後から5年生の名取康、吉 川清三郎先輩と4年生からは佐藤捨己、島田昌夫先輩が乗り込んできて「おい、一緒にやらせろや」ということになって助かりました。もっとも、3年生までは 行進曲ぐらいしか演れなかったですけどね。その頃のスコア(譜面)が残ってまして『ミリタリーマーチ~今村忠一編曲』…なんてのがあります。そういうのを 一生懸命練習していたわけです。4年生ぐらいになって、やっと格好がついてきました。それでワルツなんかにも挑戦し始めたのです。円舞曲。カイザーワルツとかね。あれはキーが「C」ですから、フラットもシャープも付いなくて易しいんです…単純にそういう理由でね(笑)。
    4年生も終わりになると流石に欲が出てきまして「やっぱりオーケストラやから、シンフォニーを演らないかん。交響曲を!」それで楽譜を買いに走りましたよ。

    当時、スコアを売っていたのは本町の三木楽器。有名な書店でもあり、国定教科書も作ってましたね。東京の丸善みたいなもんです。もちろん楽器を売っていて、 ここへ行くとスコアがずらーっと並んでいました。何でもある。ベートーヴェンもあればモーツァルトもある、シューベルトもハイドンもあったのです。
    その中から「一番薄くて易しいのを…」ということで、少ない楽器でも演奏できる譜面として選んだのがハイドンの『フェアウェル』。何しろオーボエやファ ゴットは学校にはありませんでしたからね。それを買って帰り、下級生をいささか強制的に引きずり込んで…当時、音楽部は全員「軍隊ラッパ」を吹かされ応援 団でもあったからね(笑)。それで、北野中学校第一回校内大演奏会いうのを開いたんです。

    構成としては、まず手慣らしに僕のアレンジ(編曲)した『森の鍛冶屋』を演って、続いてベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲『ロマンス』を聴かせ、盛り上がったところでメインのハイドンのシンフォニー『告別』、最後にハンガリアンダンスの5番で締めるという演目だった。

    同級生に藤末宏君というヴァイオリンの名手がいて、彼は楽譜を見ただけで初見ですらーっと弾けてしまう男でしたから…実は学力も極めて優秀で、4修で既に 三高へ行ってたんですが、この日のために彼をわざわざ第三高等学校から呼び戻して特別ゲストとして迎え、彼のヴァイオリンにわれわれが伴奏をする形でコン チェルト(協奏曲)を演ろう、と。
    これが結構な前評判でね。学校で謄写版を借りて色刷りのチラシやプログラムも作って本格的でした。当日は、キャパ1,500人は下らないあの講堂の大体半分ぐらい…500人は入りましたよ。

    さて、『森の鍛冶屋』で無事、幕があき、次のベートーヴェンへ移る時のことです。あの講堂はステージの狭いことだけが欠陥で、仮設の板を組んで臨時にス テージを広くしてたんですが、そこへ藤末君が三高のボロボロの制服に汚い手拭いを腰から下げて下駄で上がってきたんです(笑)。
    まぁ身なりはともかくも、れっきとしたソロイスト(独奏者)ですからね…1年生の部員に堀口君というお金持ちの息子がいて、彼がハイニッケのヴァイオリンを持ってましたから…それを借りて鈴木ヴァイオリンの代わりに藤末君に持たせてたんです。
    ところが、ただでさえ仮設の不安定なステージの上で、薄暗がりを下駄履きでガタガタやったもんだから、ボコーンと床が抜けてしまってね。藤末君…そこへ片 足を突っ込んで真っ逆さま。転倒の拍子にハイニッケのヴァイオリンは無残な姿に(笑)。仕方がないので、やむを得ず自分のヴァイオリンで演奏してもらいま したが、この予期せぬハプニングに会場はみんな大笑い。しかし堀口くんには悪いことしたなァ。修理して返したけど…彼、ボクを恨んでいると思いますよ。

    でもまぁ、そこまでは良かったんです(笑)。三曲目、メインの『告別』が始まった。あれは最終楽章で最初にまず管楽器が一人去り、二人去り、次に弦楽器が 去って、最後にはコンサートマスターであるヴァイオリンだけが二人残って演奏する「演奏者がだんだんいなくなる」というのが見せ場の曲なんです。

    ところが練習不足がたたってか…途中で支離滅裂になってしまい、われわれ奏者はもちろんのこと、聴衆のほうもワケがわからなくなったんだろうね。ぱらぱら と席を立つ人が出始めたかと思うと、次々とみんな帰り支度を始めてしまい、最後まで残って聴いてくれていたのは、結局ボクと仲のいい友人4~5人ぐらいで した。

    「こらアカン…」ということでボクは指揮棒を藤末君に委ねて、通用門の辺りまで…もう帰ろうとしている観客を呼び戻しに行きましたよ(笑)。「お~いっ、もう一曲あるんや。今度のはええねん!ハンガリアンダンスや~」

    結局、30人くらいが引き返してくれて…フィナーレ(終曲)は拍手喝采でした。やっぱり『告別』を途中に持ってきたのが失敗だったようです。われわれがス テージを去るよりも先に聴衆が去っていったという…笑えない昔話(笑)。でも、ほんとに面白かったなぁ。あの演奏会はね。

Update : Dec.23,1999

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