第1楽章
生粋の十三っ子
- 生まれは十三なんです。大正10年ですから、ちょうど箕面有馬電気鉄道(いまの阪急電鉄)が開通したころですね。当時十三は大阪府西成郡神津村字児島といって…周囲は一面に田畑と沼地の広がる鄙びた郊外でした。まだ北野中学も中津から移転してくる前のハナシです。ちょうど十三公園の辺りは「ミードの森」といって…今の3倍くらい鬱蒼と繁った小丘状の森があって、そこにミード神父の創設された「ミード社会館」と「淀 川バプテスト教会」があり、教会に付属して幼稚園がありました。ボクはそこの出なんです。ミード幼稚園には舶来の木馬だとかオルガンだとか…当時の日本で は百貨店でも目にすることのなかった珍しい玩具があって…それが今でも強烈な印象となって心に焼き付いていますね。2番目の兄貴が熱心なクリスチャンで、 日曜の度に教会の礼拝に通っていたことを思い出しますよ。
小学校は十三尋常小学校に通いました。兄の時代には、まだ神津尋常高等小学校の十三分校でしか無かったのですが…4年生までこの分校に通学し、5年生に なったら本校へ行く…と。それが、ボクの時には正式な尋常小学校に格上げされていたのです。ちょうどその3年生のころに北野中学の校舎が十三に移転してき たのです。まさかボクがそこに通うことになるとは思ってもみませんでしたがね(笑)。中津から北中の生徒が机やら椅子やらを担いで旧十三橋(ちょうどその 頃、十三大橋は新築建造中だった)を渡って来るのを子供ながら遠目に見ていたものです。
さて、それで…どうしてボクがそんな難関中の難関を受けることになったか…ですけどね。ボクの小学校の卒業席次は5番でした。当時、市内の優秀な小学校か らは北野へ何人も入ったりしてましたが(一番多かったのは偕行社で…今の追手門学園ですね。陸軍の作った学校で、将校の息子や良家の子弟を通わした学校で す。それに「愛日」「集英」「汎愛」「曾根崎」などの有名校…)、郊外の田舎の小学校からはせいぜい入れても一人…という状況でした。だから小学校の進路 指導としても席次が1番の者しか受験させないのが普通でした。
「野口、お前は豊中組や。とても北野へは入れん」担任の先生からはそう断言されていました。3番目の兄貴も豊中中学の第10回卒業で、電車通学でした。と ころが親父がいわく「藤三郎、お前は体が弱いから…家から歩いて通える中学校へ行け」と。もうその時点で北野しか選択肢が与えられなかったわけです。「そ れしか許さん。すべったら丁稚奉公や」…非情なる厳命でした。担任の先生は親父を呼び出して「豊中クラスである」旨、説得を試みたようですが、何しろ頑固 な親父でしたからね。「駄目です。歩いて通える学校へ行かせます」。そう押し切られて、しょうがなしに北野を受けた。
当時の十三公園 今もほとんど風情を変えていない |
結局、当時の十三小学校の担任の先生が偉かったんでしょうね…北野を受けた5人は全員受かりましたよ。吉川君、千頭君、関君、高橋君、そしてボク…。十三 小学校としても開校以来の快挙ということで北野へ大量の合格者を出した。大正10年生まれには成績の優秀な人間が多かったんですねぇ(笑)。