3歳の頃 母に連れられて有名な ベルリン戦勝塔の前で (1923年) |
第2研究室
大学の選び方…
- 私の場合は家庭環境が大きかったと思います。私の親父というのが1882年(明治15年)に京都の宮津で生れて、明治の中後期時分に、単身アメリカに渡 り、大学に通って医師免許を取った男なんです。別に友達もないし、誰も紹介する人も無いのに、なんで宮津の田舎からいきなりアメリカに行ったのだろう… と、私は生前にもっと聞いておけばよかったと後悔していますが(笑)、そういうチョット無鉄砲…よく言えばアンビシャスな男でした。向こうで結婚して、向こうで私が生れました。私が1歳くらいの時に、親父は「これから日本へ帰りたいけれど、帰るためにはドイツへ行かんとあかん」そう言って家族をつれてベルリンへ渡り、2年ほどロベルト・コッホ研究所で 研究をして、博士論文を書いて日本へ帰国しました。本人は、大学の先生になる心算だったそうです。ところが、大正時代…アメリカの大学で医師免許を取っ て、ドイツへチョット2年ほど行って学位論文を書いたくらいでは、日本の大学では全然問題にしてくれなくて、結局…大学は諦めて、開業医をして一生を過ご した訳ですね。
非常に学究的で良心的な医者で、自分の父親だから言うのではありませんが、今でも臨床家として非常に尊敬しています。夕食なんか、必ずアメリカ式に家族 揃って一緒に食事をするんだけど、そういうときの話題も、新しいアメリカの医学雑誌の中のトピックとか、特に私が阪大の医学部に行ってからは、そういう話 が多くて、非常に真面目な人でした。私は別に「医学部へ行け」とか「研究、基礎に行け」とか言われませんでしたが、親父を見ていて、医者になりたい、医学 を研究したいという気持ちはずっとありました。それでなんとなく医学部を志望したわけですね。
ある日、私の友達が珍しくうちへ来て「早石、ちょっと顔貸せや…」と言うわけです。「何や、珍しいな…」と着いていくと「お前、阪大に行くそうやけど…東 大にせぇや」「何でやねん」「お前は知らんだろうが、日本の医学界というのは…偉ろうなろと思ったら東大出んなアカン。将来、学士院の会員になるとか文化 勲章を貰おうと思ったら、東大を出ていなければ損をするんや。その次は京大。だから…阪大なんか出ても田舎の病院長くらいにしかならへんで。」
彼は私を秀才だと思ってくれていたわけです。「折角、お前…これだけよう出来るのやから、クラスからお前くらいは東大へ行ってもらわなアカンのや」そう言って一晩、昏々と説教をしてくれました。「持つべきものは良き友」とはよく言ったものです(笑)。ところが、それも親父に言わせると「日本の大学なんか…東大でも、京大でも、阪大でも…どこへ行ってもみな同じだ。だから、うちから阪大へ通って、さっさと勉強して、早いことアメリカの大学へ行くんだな。」となるのでした。
それで仕方なく阪大へ行ったのですけど(笑)、もしあの時、東大へ行っていたら…逆に、恐らくどこか田舎の病院の院長さんに落ち着いていたと思いますよ。 確かに、東大医学部の出身の人はものすごく頭が斬れます。私もたくさん付き合っていますが、とても適わんです。だけど、ご承知のようにノーベル賞とか文化 勲章、学士院賞などになると圧倒的に関西が多いですね。人文科学は別ですが自然科学では非常に多い。
だから、余り賢いと創造的な研究は出来ないんじゃないかと思います。だって…疑問を持った時に教科書を読んで、自分なりに解釈して「こうだ」と結論がすぐ に出てしまったら…それで終わりでしょ。それ以上つっこんで、何とか自分で実験してみよう…ということにまで至らない。「不思議やな…」そういう気持ちに なるのは、ある意味…馬鹿である、愚鈍である必要があるんですね。
アメリカでも同じで…アイビーリーグといってエール大とかハーバード大とかを出た人よりも、むしろカリフォルニア大とかサンディエゴ分校とか…田舎の大学 出のほうが多くのノーベル賞を受賞したりしています。私の大先生の一人、アーサー・コンバーグ氏も…ノーベル賞受賞者の中でも一番偉いと言われている人で すが…ロチェスターという田舎の大学出です。
ちょっと言い過ぎかも知れませんけど、研究者というのは自分の好奇心、問題意識、「不思議だな」と思ってそれを追求していく…そういう姿勢が基本なんで す。余り頭が良すぎると、自分で答えを出してしまうからダメなのでしょうね。実験は手間も掛かるし、時間も掛かる。しかも、やってみないことには巧くいく か否か…分からない。そんなことをしているのはバカですよね(笑)。
Update : Nov.23,1999