第1畝
青春は動乱の中で…
- 北野は私にとって基本的な科学や知識を吸収する場所でした。ただ、しかし…校歌にあるような「エリートにならなきゃいけない」かのごとく一種独得の伝統の 雰囲気にはことごとく反抗的でした。ですから高校生の時には「ブラジルなんかに移民して農業をやりたい」と本気で考えていました。大学も農学部を選びまし た。商売人の息子だったにも関わらず…(笑)。1960年に京都大学農学部に入学。この時すでに「このまま大学を卒業してどうなるだろう」と思ってました。日米安保改定・反対運動の盛んなりし頃です。 もともと既存のレールに乗ろうという発想は高校時代から無かったのですが、社会自体が戦後日本の現体制の崩壊を信じるような気運でしたから…若かった私は 活動に熱中して、いつの間にか京大教養部自治会の書記長となり、副委員長を務めるまでになっていました。
その後、私は大学を中退して労働運動へ…。総評は年々大幅賃上げを実現していましたが、それは大企業や官公労に限られていた。中小零細企業の労働者は組織 ももたず、低賃金で劣悪な労働条件下にあったのです。産業界の二重構造化が進行していました。それで私は地域単位の個人加盟の労働組合づくりや、日雇い労 働者の運動などもやりました。
大学には何の未練もありませんでした。このまま大学を卒業して一体何になるか。普通に企業に就職してどうなるか…そんな疑問を持たざるを得ないような風潮 が充満していたのです。60年安保の時代とはそういう時代でした。国民が真剣に自分たちの社会を考えた時代…平和ボケした現代では到底考えられない「昔 話」かも知れません(笑)。
70年代から80年代へ…日本という国は「経済大国」への道を邁進しはじめた。労働運動は無力化し、世の中の矛盾は解決されないまま、益々歪みを拡大させ ていました。けれど、世の中は変わりそうもない状況となっていったのです。世直しをストレートに求めるのではなくて、自分たちの生きざまや多様性ある価値 観を実現できる領域づくり…いわゆる共同体運動へと方向を変えていったのです。