われら六稜人【第22回】ヤマに憑かれた放浪人生

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ジプシー暮らしは生まれつき

    ボクはね、兵庫県鳴尾村の育ちなんです。今の西宮市。大阪じゃなしにね。生まれの話はよく聞かれますけど、あなたは自分がお生まれになった時のことを覚えてますか?ボクは全然覚えていませんね。といってもそれが当たり前のことですけど(笑)。
    おふくろが言うには静岡で生まれたんだそうです。でも、ずっと鳴尾で育ってますからね…やっぱり「兵庫県出身」でしょうね、基本的には。ただ、親父が戦争中に徴兵の関係でね「家族は自分のそばがいい」っていうんで、引越す度に本籍を移した形跡があるんですよ。だからその都度、四国に行った り東京に行ったりしまして…あちこち本籍が変わるんですね(今でも本籍を移すことはできるんですよ、理由によってはね)。
    戦争中は「徴兵」というのがありましたでしょ。あれは本籍地の軍隊に入るんですよ。ところが…仕事の関係で住所を転々とした父親が、もう趣味のように本籍を移すものだからね。「どこがお前の本籍地か」って聞かれても答えようがない(笑)。

    結局、ボクのさすらいの人生も…実は、先代譲りの「血」がそうさせるんでしょうね(笑)。

    で、鳴尾小学校でボクは成績が良くなかった。まあ…遊んでばかりのガキ大将だったわけです、基本的に(笑)。だけどね…甲陽中学とか灘中とか(今でこそ、 もの凄くいい学校だけど)当時はさほど大したことなくって、神戸一中とか北野とかが断トツのトップレベルだった。それで子供ながら、何となく一流の中学校 に行きたかったんですよね。ところが神戸一中はその当時からものすごく難しかった。北野のほうがまだ優しそうなくらい…(笑)。それで小学校の先生に「北野中学に行きたい」と言った の。でもね…実はその最大の理由は、神戸一中のゲートル(巻脚絆)がカーキ色だったのに対して北野中学は真っ白の海軍式!それが、何だかこう…たまらなく 格好良くてね。女性の視線が気になる…色気のついてくる年頃だったしね。
    今の子供だけじゃないんですよ、表面的な「カッコ良さ」ってのは。ボクらの時代だって一生懸命「カッコイイ」にこだわったもんです。いつの世もまずはスタイルから入るもんなんですよ(笑)。

    それで小学校の先生に「北野を受ける」って言ったら、すごく怒られましてね。あの当時でも、ちゃんと「お前の成績だったらこの辺だ」みたいなのがありまし て…(今の“偏差値”ほどではないですけれど)…やっぱり進学指導みたいな相談会があったんですよ。親も「北野を受けたって通らん」と言われたらしく て…。

    反抗期ってのはありがたいものでね(笑)…そう言われると、逆に「ゼッタイ通ったる!!」って。死ぬほど勉強しました。今でも覚えてますけどね…あのとき 先生に「落ちる」と言われてなかったら…本当に落ちてたかもしれません。それからものすごい勉強して…通ったんですよ、見事。僕よりも成績の良かった子が 落っこってね。

    当時、鳴尾から何人か北野中学校に行ったんですけどね。みんな優秀な奴ばっかりで…僕は成績の悪いほうだった。例えば、セロテープ作ってるニチバンの… (もうとっくに定年で辞めましたけど)…社長やってた大塚くんとか、朝日新聞で山の写真を撮ってた藤木高嶺という男がいるでしょ。彼も鳴尾小から北野に 行った同期です。確か4、5人いましたが…後世、みんな大手・一流で活躍しましたね。

Update : Jul.23,1999

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