われら六稜人【第17回】震災を越えて…灘の酒造り

第2樽
明暗分けた学生時代

    北野高校時代は一言でいうとつらい時代でした。授業についていけなかったのです。1年の夏休みあたりから特に数学がサッパリ分からず、英語も苦手で成績は 下がる一方。それで2年、3年はよく授業をさぼりました。一応「映画研究部」というのに属していまして、授業をさぼっては映画ばかり見ていたものです。先日、同窓会で藤尾先生と話をする機会がありまして「先生、ボクを覚えておられますか」と聞いたら「よく覚えているよ。いつも授業中に教室の一番後ろで新聞を読んでいた」と言われました(笑)。

    出席日数がやっと足りて卒業は出来ましたが、友達もほとんど出来なかったし、いい思い出もほとんどありません。

    そうそう。美術の時間に一度だけ、岡島先生(マントヒヒと呼んでました)に誉められたことがあります。青空をバックに校舎の絵を描いたのですが…その青空 に、いかにも寂しくはかない思いが表れ出ていたからだと思います。当時のボクの心の内面を映していたんでしょうね。その絵を誉められました。

    1年浪人して関西学院に入学しました。キャンパスにはちょうど桜が満開に咲き乱れていて、これまでの4年間に鬱積されたものがいっぺんにパァーッと晴れる思いでした。関学のキャンパスに安心感と安らぎを覚えたのですね。これがボクの青春の転機でした。大学では3つのグループに所属しましたが、この当時のつきあいが今もボクの生活の大部分を占めています。

    一つは詩吟部。3年の時に部長を務め、現在はOB会の会長をしています。もう一つは社会心理学の田中ゼミ。寄付を集めて「社会心理学館」というのを建てま した。当時は学生運動の華やかなりし頃で、学生が「破壊」ばかりしているのに「建設」をしたということで新聞にも取り上げられたものです(このプレハブ小 屋…今でも残って居るんですよ)。そして3つ目が「キャンプリーダー」というサークル。神戸女学院の女性と関学の男性が集まって勤労青年たちの世話をする ヴォランティア団体です。夏はキャンプ、冬はスキーなんかを企画しました。

    実はこの「キャンプリーダー」で女房と知り合ったんです。彼女は神戸女学院からの参加でした。大学を卒業して4年後に結婚…長い春でした(笑)。

    この4年間の大学生活で、北野時代に鬱積していたものがすべて爆発したような気がします。昇華したというのかな。今でも、この4年間がボクの生活の糧になっていると言っても決して過言ではありません。

Update : Feb.23,1999

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