第3話
共学生活あれこれ
~クラブ・制服・校歌
(編) その頃のクラブ活動はいかがですか。 堤 結構盛んでしたよ。 北村 私は新聞部でとても可愛がってもらいましたよ。 堤 文芸部とかも未だに仲ようしてはりますわ。 田村 私は理研にいたんですけど、大学に入った先輩がしょっちゅう遊びにきてくれはって。 堤 その時分、野球部が強くて勢力もってたから、ソフトボールの同好会なんかやってたけど「邪魔になるから十三公園でやれ」とか言って、さして貰われへんかった。確かにそういう所はありましたよ。強いところはラグビー、バレー、野球やねえ。 田村 汚い体育館があって、バレー部が使われてたわね。 北村 床に穴あいてね。 堤 それこそ女子はお荷物みたいな感じでしたね。バスケットなんか正岡先生が指導してて国体なんかに出ている時分でね。女の子なんかちょこちょことしたら、はい休憩、帰れ、てなもんでしたね。まぁ、言うたら合間に使わしてもらうだけでしょ。 青木 器械体操もその間に使うしね。その頃強かったから。 堤 文化祭でバザーみたいなのもしたわね。なんか色々と物売ったりしてね。野球部のバザーとか。 青木 割合盛んだったわねえ。 堤 飲食の模擬店もありましたよ。おいしかったねえ。父兄も来てくれはったしねえ。 田村 水泳大会も断郊競走もありました。 北村 女子は競技数少なかったですけどね。 田村 それに駅伝があった。今は道路事情が許さないでしょうけど。 斎藤 私あんまりプールに入った思い出ないのよ。 堤 放課後開放してたから、私達泳ぎましたよ。でも水が汚くてゲンゴロウが泳いでましたね。底も壁もヌルヌル。あんなん今ごろ考えられへんね。 青木 プールの水を入れ変えると十三の街が断水する言うてね。 一同 そうそうそう。 堤 水球も強かった。国体に出はったらね、休み時間に帽子が回ってくる。それでカンパようしたわね。 田村 「教室のドアを必ず開けておくこと」というのありましたね(笑)。 北村 あったわねえ。それは守りましたよ。 青木 制服は最初大手前のそのまま着てたんですよ。セーラーでね。 斎藤 その制服をずっと持ってたんですけど大手前から頼まれて寄付しましたのよ。 青木 討論会あったよね。「制服をどうするか」という…。 堤 ようやりましたね。生徒会で女子だけ集まってね。 斎藤 形が決まった後、制服はそれぞれに注文したりして作りまし たよ。スカートはボックスプリーツで襟はこんなんでとね。生地もみんな違うし、それぞれにウエスト絞ったりしてね。戦時中は女学校服みたいなのがあって ね、ヘチマ襟で黒くて。夏でも腕出したら目立って機銃掃射受けるからといって長袖のままでね。 北村 校歌が変わらなかったのはどうしてか、誰かご存知ですか。 青木 なんか集まったような気がしますね。校歌を変えよういうて。 北村 それでね。女生徒にどう思うかって聞かれたような気がするんですね。覚えがないですか。うちの校歌はご存知のように非常に旧制中学らしいものでしょ。ですから抵抗感じて歌わなかったんです。いまだに歌詞見ないと歌えないんです。 青木 大手前も変えてはれへんでしょ。あれの方がおかしいわね。女学校の歌詞なのにね。 北村 音程は男性に合わせて少し下げたんですよ。 青木 豊高や桜塚なんか校章も変えはったよ。 田村 でもいつも思いますわ。よくぞ大手前と北野でやってくれたわねえと。
Update : Nov.23,1998