1回表
野球人生のはじまり
梅田 | ![]() ![]() 終戦直後の昭和20年、2学期(10月か11月頃だったと思う)になって、出来たての野球部に移ったンだ。広瀬、市村、多湖なんかがすでに部員でね。だから、ボクの場合はラグビー部、陸上部(これは半年)…そのあと野球部に入ったというわけだ。 |
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市村 | ![]() ![]() |
山本 | ![]() ![]() ボクも最初は陸上部に入り、砲丸とハイジャンプをやっておった。品川も陸上部だし…他にも陸上部から野球部に移ったのが多かった。「集団脱走だ」と言われたモンだ。しかし、基礎体力はこの陸上部時代に作られたんだと思う。 昭和21年の夏に北野のグラウンドで浪商と試合をしたことがある。浪商にはあの平古場投手がおった。この試合は結局は5対2で負けたが、なかなかの名勝 負だった。当時の浪商は西宮球場で京都二中(ここには名投手の田丸がいた)と戦って優勝したばかりだったので、北野のグラウンドにはものすごい観衆が詰め かけたものだ。北野にも鈴木、藤田という先輩がおり、これはいけると思った。 この…ボクの隣に座っている長谷川は、予科練の出身で当時からパリッとしてた。マラカツ(先生)に昂然と反抗しており、カッコ良かった。今日話題の「北野、逆転優勝」の旗頭となった男だ。 |
長谷川 | ![]() ![]() |
梅田 | そうそう。授業時間中にグラブの配給があってね…授業を抜けて貰いに行った。先生が唖然とした顔をしてたね。北野に割り当てになったのはその1個だけだった。 |
長谷川 | 兵器庫の前で先輩の鈴木さんが体操帽(戦闘帽みたいな帽子でした)をかぶって野球をしていたのが印象に残っている。昭和23年には甲子園で準優勝まで行っ たが…この時でさえ、着ているユニフォームはみんなバラバラだった。ストッキングは上半分が紺で下半分が白のを揃えた。帽子も何とか揃えた。 |
山本 | 主将は初めが広瀬で、そのあと梅田になった。この二人がまとめ役だった。みんなの意見を聞き、練習メニューを決めたのも長谷川で、ストッキングも長谷川が決めた…? |
梅田 | 違うよ。ストッキングをどういうのにするかは皆で合議して決めたんだ。 |
山本 | ボクは母が買ってくれたユニフォームを着ていたが、よく「ステテコみたいなズボン」と言われたもんだ。零細地主だったので毎日腹ぺこで…食い物と言えば薩摩芋と大豆しか食っていない。それでも甲子園に出れた。それを思うと、潤沢だからいいってものでもないナ。 |
三川 | ![]() ![]() |
長谷川 | 文化祭のバザーの切符を先輩の会社を訪ねて買って貰ったりしたこともあったね。 |
山本 | 当時は封鎖預金の時代で…わが家は4人家族が一ヶ月270円で生活していたナ。 |
市石 | ![]() ![]() 昭和23年に再び大阪へ戻ってくることになり、高津か北野か…迷ったけれど、野球の強そうな北野を選んだ。4月に入学して、その年準決勝で負けた野球部にすぐに入部した。もう、選抜に出場した人は憧れのスターだった。偉い人タチやなぁ…と思ったものだ。 オヤジが闇市で進駐軍のグラブを買ってきてくれた。ピカピカの上等のグラブだった。 |
山本 | 市石は良くできた。小浜中学の時に存分に勉強したんやろな。こっちは服部農園で学徒動員やらされてたからナ…(笑)。 |
Update : May.23,1998