【266回】2月『天野為之-日本で最初の経済学者』

 

Ⅰ.日時 2025年2月19日(水)11時30分~13時00分
Ⅱ.場所 バグースプレイス パーティルーム
Ⅲ.出席者数 42名
Ⅳ.講師

池尾愛子さん@87期

(早稲田大学商学学術院教授)

1956年 大阪生まれ.

1985年 一橋大学大学院経済学研究科博士課程修了.

2002年 博士学位取得(早稲田大学).

現在 早稲田大学商学学術院教授.

 

著作

天野為之:日本で最初の経済学者』ミネルヴァ書房, 2023年.

グローバリゼーションがわかる』創成社, 2017年.

A History of Economic Science in Japan: The Internationalization of Economics in the

Twentieth Century, London: Routledge, 2014.

赤松要:わが体系を乗りこえてゆけ』日本経済評論社, 2008年.

日本の経済学:20世紀における国際化の歴史』名古屋大学出版会, 2006年.

20世紀の経済学者ネットワーク:日本からみた経済学の展開』有斐閣, 1994年.

日本の経済学と経済学者:戦後の研究環境と政策形成』(編集)日本経済評論社, 1999

年. 英語版 Japanese Economics and Economists since 1945, London: Routledge, 2000.

Economic Development in Twentieth-Century East Asia: The International Context, (編集),London: Routledge, 1997.

Routledge Handbook of the History of Women’s Economic Thought(共著), London: Routledge, 2018.

Ⅴ.演題 『天野為之-日本で最初の経済学者』
Ⅵ.事前宣伝 天野為之(1861-1938)の評伝が2023年末にミネルヴァ書房から出版され、彼が「日本で最初の経済学者だった」と認知されつつあります。天野は東京大学を卒業し、東京専門学校(早稲田大学の前身)の設立に関与しました。天野の『経済原論』(1886)は明治期の経済書ベストセラーです。彼は「貿易は世界を変え、発明は物質的進歩をもたらす」と確信し、自由放任を唱えて民間人の実業に期待をよせ、人材育成のために普通教育や経済・商業教育が重要であると主張しました。経済雑誌の刊行に熱心に取り組み、幣制改革、増税や監査の問題を的確に論じて工場法の制定を促し、先駆的な言論活動を繰り広げて経済ジャーナリズムの信頼と権威を高めました。
Ⅶ.講演概要 *紹介者は蛭子(速水)明子さん(87期):1972年北野高校入学で87期同期。クラスは異なるが女子バレーボール部で一緒に練習に励み大会に参加した。池尾さんは練習時の集中力が素晴らしく、何よりもジャンプ力が人並外れていて、エースアタッカーとしてパワフルなスパイクをバンバン決めていた。ネットを張る時にワイヤーを張るクランクが見つからない時には素手でグイグイ巻き上げたこともあり、誰かが「鉄腕愛子」と呼んでいたような気がする。数学を教えてくれ友達を思いやる優しい人。卒業後は一橋大学に進学、東京に拠点を移されたのでなかなか会えなかったが、これから老後の楽しみとして話が出来たらと思う。卒業から50年、本日の再会と講演を楽しみにしている。

〈〈著書『天野為之:日本で最初の経済学者』(2003年ミネルヴァ書房)に基づき、以下講演を行う〉〉

1.天野為之(1961-1938)とは

1)経済学者

『天野為之:日本で最初の経済学者』を出してから、内容について異論や反論は無く天野為之は「日本で最初の経済学者」と認知されたとの認識。天野は、学者の中でも先頭を走る「雁奴(がんど)」を目指していた。

2)経済ジャーナリスト(言論人)および経営責任者(社長)

『東洋経済新報』の創刊に関わり、二代目編集責任者となる。東洋経済新報社の会社のかたちを整えるとともに、社長として経営全般をみる立場となる。

3)政治家

佐賀県唐津より立候補。1890年第一回衆議院選挙当選。第二回落選を機に政治家を引退。

4)教育者

東京専門学校創設者(早稲田四尊の一人)、早稲田大学商科(商学部)創設者であり初代商科長(ビジネス・エコノミスト)、第二代早稲田大学学長、早実創設者の一人、第二代早実校長。

 

2.天野為之の略歴

1)父松庵が唐津小笠原家の江戸藩邸詰の藩医であったため1861年に江戸で生まれる。江戸時代の漢方医たちは長崎出島の交易から手に入る薬剤や医学書に注目するとともに、長崎貿易利益の享受者であった。実際、彼らは貿易問題(開国)に大いに関心を持っており、唐津藩では対馬や長崎警固を通じて海防問題への関心が高かった。

2)幕末・明治維新の動乱の中で父が病没し、天野は母・弟と藩地唐津(佐賀県)に戻る。

3)明治維新後、唐津藩は英語教育に力を入れ、英語教師として高橋是清を抜擢。1871-2年頃の2年間、高橋は唐津で英語教育にあたり、天野も高橋から英語を学ぶ。

4)1878年に天野は東京大学に進み、高橋是清との関係は東京でも続く。高橋は後に日本銀行総裁・首相・蔵相になるが、天野を含む唐津の若者は、初代商標登録所長、初代専売特許所長等の高橋の活躍に大いに影響を受けた。

5)東京大学第3学年(1880年)で、アメリカ人アーネスト・フェノロサから英語で経済学と政治学の講義を受けた(フェノロサは、後に日本の仏教や美術を西洋に紹介した人として有名。経済学はハーバード大学の経済学担当のフランクリン・ダンバーからの助言を受けて講義をしたと思われる)。

6)1882年10月に東京専門学校(早稲田大学の前身)が創設され、日本語での教授を原則とした。天野は教師として招かれ、経済学の講義等を日本語で担当した。その講義ノート等が1886年に『経済原論』(経済理論)、『商政標準』(経済政策論)として出版された。

 

3.開国と天野為之

200年以上に及ぶ徳川幕府による鎖国政策の終焉=開国という時代背景と少年期を過ごした唐津の土地柄より、天野は、西洋諸国が武力で日本に勝るのは明白と考えていたこと、国際的な感覚が身についていたことから、国防力の強化や国際交易制度の確立が必要と考え、そのための人材育成の重要性を唱えた。

・1842年 中国とイギリスの間で南京条約締結

・1853年 米艦浦和沖渡来

・1854年 日米和親条約締結

・1858年 幕府がアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5カ国と修好通商条約を締結(4カ国で長州藩を攻撃した下関戦争で、5カ国はそれぞれ連絡を取り合っていたことが分かる)。

・1961年 ロシアのコルベット艦ポサドニック号が対馬の一部を占拠し、海軍基地建設のため土地の租借を対馬藩に強要。幕府の抗議では退去させることが出来ず、イギリスの介入により解決した。このような時期に天野為之が誕生した。

 

4.天野為之『経済学綱要』1902年

1)天野は『経済学綱要』を公刊し、資本の増加(投資)と貯蓄が金融システムによりバランスすると論じて、現代マクロ経済学で中心となる理論を展開し、新しく誕生した銀行の機能に期待した。当時、日本では資本が不足していたが、外国から借りることができず、貯蓄するしかなかった。勤倹貯蓄増を行う。

2)一方、賭博場と化した取引所については期待していなかった(監査制度が不十分であった『東洋経済新報』記事→1940年代後半に公認会計士制度ができ、ようやく制度が整っていく)。

 

5.政府の商業政策と天野為之

1)政府の民間経済活動への介入

政府が経済を牽引していた当時において、天野は政府による民間の経済活動・経済過程への介入はできるだけ少ない方が良いと考えていた。ただし、当時、活発な商業経済活動を担える民間の人材が不足しており、普通教育そして国際ビジネスを担える人材の育成が必要であると唱えた。

2)天野流自由放任

自由競争に任せても、消費者は「評判」を考慮して選択するので大丈夫であり、経済活動は自由競争に委ねることが望ましいと考えた。

3)自由放任と教育

自由競争に任せる前に教育が必要。「氷寒藍青」(氷は水より出でて水より寒し、青は藍より出でて藍より青し‐弟子は師匠の学識と技量を超えるものである)を引用して、自由に事業に従事するためには教育が必要であり、その先の政府の介入は不要と考えた。

4)政府の役割=発明を促すこと

発明を促すための政府の役割として、特許制度、国際的専売特許条約への加盟、著作権(コピー・ライト)制度の確立が必要と唱えた。公衆と一個人とで経済上の利害が異なる場合は、発明を促すために、一個人の利益を優先して公衆の利益を犠牲としても仕方がないとした。

 

6.天野為之『商政標準』1886年

1)本書で発明と特許について詳細な考察を展開した。公衆と一個人とで経済上の利害が異なるとき、一個人の利益を優先して公衆の利益を犠牲とする場合として、発明をとりあげた。商業の自由と反対するものであるとしながら、発明に対する専売特許を解説した。

1883年 パリ条約 工業所有権

1887年 ベルヌ条約 著作権や翻訳権

これらの条約は現在までいきており、1967年世界知的所有権機関(WIPO)設立、1995年世界貿易機関(WTO)憲章「付属書-C」へと引き継がれている。1886年の時点で、工業所有権や著作権の重要性を唱えたことは非常に先駆的なことといえる。これにも高橋是清の影響が見られることは、指摘するに価する。

2)政府介入が必要な事業

新規の大事業には、政府の介入が必要であるとする。例として、国際貿易(遠隔取引)をあげ、オランダやイギリスの東インド会社が国際貿易を独占していたことを念頭におく。ちょうど、『商政標準』を書いていた時期に、政府は国営事業の民間への払い下げを行っており、うまくいかなかった事業や役割の終わった事業の払い下げを「政府の失敗」と捉えていたようだ。

3)保護政策

「外国の競争に対して内国の産業を保護する」ことには、種々の説があるとしている。「幼稚産業保護法(J.S.ミル)」や「政府による教育論(独ロッシャー、ドイツ語→仏訳→英訳)」を紹介し、産業化、工業化を進める段階にある日本で、該当する業界を守るためにケース・バイ・ケースで関税をかけるのはやむなしと考えた。

4)品質保証

政府が製品の検査検印制度を実施することにより干渉することには反対し、商標(トレード・マーク)制度の確立を支持する。1884年に高橋是清が商標登録所の初代所長に就いており、天野が高橋の影響を受けたのは間違いないと思われる。

5)イギリスの経済政策

天野は、世界で商業・産業が最も発達しているイギリスの諸事例に注目し、日本に適用すべきものを紹介した。国防(対馬問題)、警察、司法に関するサービス、法定通貨、度量衡(メートル制はフランス)、その他、政府が行う諸政策につき、細かいイギリスの規制や規格を具体的に紹介し、参考にすべきとしている。さらに、政府や公的部門が実施する事業についても、イギリスの諸事例を参照した。

 

7.『東洋経済新報』の創刊と経営

1)天野は1889年(明治22年)2月に『日本理財雑誌』を創刊した。創刊号にはよく引用される一節がある(以下現代語訳):

「一方では学問の光明に照らして事実を明らかにし、他方では事実に基づいて学問を確かめ、学問の理論と応用とを相併行させて、実際と学問の両社を関連づけることによって、日本の学問および政治[政策形成]に役立つことを期待する」

2)衆議院第一回選挙に出馬するために雑誌は廃刊となったが、当時の地租問題について天野自身が多くの調査記事を投稿していたことは重要である。

3)1895年に町田忠治が『東洋経済新報』を創刊。町田は、突然日本銀行に転進するまでの一年余りほとんど一人で編纂に取り組んだ。

4)町田が転進した後、天野に白羽の矢が立ち『東洋経済新報』を編纂することになった。当時、天野は、東京専門学校講師(教授)と東京高等商業学校(現一橋大学)の嘱託講師等で忙しかったが、大学の卒業生を使い編纂業務にあたるとともに会社のかたちを整え、社長として経営全般をみるようになった。

 

8.『東洋経済新報』と経済策論

1)租税論議

地租増徴や営業税問題について(天野は反対)、当時大蔵省の地方徴税官をしていた浜口雄幸と丁々発止の論争を行った。

2)外交と貿易

ちょうど、日英同盟が締結され、満韓経営の開放主義を唱えていくという時期にあたる。アメリカにおいて日本研究を進めるために、アメリカの大学で教鞭をとっていた朝河貫一が日本の書籍・史料を求めて早稲田大学関係者とコンタクトし、天野が、『東洋経済新報』をイェール大学が発行する『イェール・レビュー』と交換することを約束した。先進的な学術の国際交流を目指していた。

3)金融政策論と人材育成

以下のような様々なトピックスが取り上げられた:

・貨幣政策と公債-金本位制の整備(国際金本位制の仲間入り)等

・近代銀行業の展開-天野の銀行論等

・取引所改革-公認会計士制度の必要性等

・経済教育と実業教育-人材不足、人材育成、工場法の制定

4)工場法(現在の「労働基準法」)の制定→自由主義の修正

当時、労働者の酷使や虐待、ずさんな安全管理や劣悪な労働環境が社会的問題となっていた。農商務省によって行われた各種工業部門の労働事情の調査がまとめられ、1903年に印刷された『職工事情』により、労働者の環境があまりにも酷い実情が一部には知られるようになる。労働者保護の法律が制定されるには更なる時間が必要だが、劣悪な労働環境の原因は悪い経営者との認識で、良い経営者を育てる(教育する)ために明治大学や早稲田大学に商科(商学部)が開設され、天野は1904年1月早稲田大学初代商科長に就任する。その後、1911年にようやく工場法が制定され、1916年に施行される→石橋湛山時代へ。

 

9.石橋湛山の天野評

1)石橋湛山は『東洋経済新報』主幹となり、1934年に英文月刊誌『オリエンタル・エコノミスト』The Oriental Economistを創刊した(1985年終刊、現在オンライン版になって復活)。

2)1938年4月号に天野の追悼文を寄せ「明治大正期に活躍した経済学者のほとんどが、教室で天野から学んだか、彼の著作や経済論文を読んだかしており、彼の教え子たちだといってよい」、「『東洋経済新報』の編集者であった時期に、天野の人生物語の中でおそらく最も重要な章が書かれていたことであろう」と紹介した。この追悼文により、海外で日本を研究している人の方が天野のことをより知ることになったと思われる。

 

 

Ⅷ.質疑応答

今井美登里さん 80期

Q:天野為之に関する本を書くきっかけは何か?

A:日本の経済学史を研究していたが、明治期の経済学史が良く分からなかった。何か抜けているとの思いを持っていたが、その時に天野為之の名前に出会った。しかし、史料文献を見つけることが難しかった。天野を研究するためには早稲田大学に行く必要があるとのことで、早稲田に行った。

 

清徳則雄さん 79期

Q:日本の江戸時代にも貨幣や相場があり、日本が欧州に比べ経済的に遅れているということは無かったと思うが、如何?

A:江戸時代の日本にも(近代でも使える)二宮尊徳や貝原益軒等の考えはあった。ただし、国際貿易や国際経済的な考え方や制度が無く、国際化に向けて諸制度を整える必要があった。

 

橋口喜朗さん 78期

Q:天野は高橋是清から色々教えを受けたとのことだが、大蔵大臣時に起こった金融恐慌に際して(国家のピンチに際して)、高橋への提言は無かったのか?高橋是清に対してどのような態度だったか?

A:天野は1907年まで色々な意見を発信していたが、大学行政に専念するようになった。そして1917年の早稲田騒動以降は、早稲田実業で人材育成に専念し、政府政策にコメントすることは無かった。

 

 

角谷歩さん 87期

Q:天野はフェノロサに経済学を教わったとのことだが、フェノロサは美術関係の印象。経済学を教えることができたのか?

A:フェノロサはダンバーというハーバードの経済学担当者の助言を受けて授業を行っていたと推測している。

 

Q:当時はイギリスの古典派経済が完成していく時期だったと思うが、天野はどの流派に属するのか?

A:ジョン・ネヴィル・ケインズ(ジョン・メイナード・ケインズ=ケインズ経済学=の父)の著書を天野が翻訳しており評価されていた。同書には新古典派経済学が含まれ、フランスのクールノーへの賛辞、イギリスのマーシャルやオーストリアのメンガーへの言及がある。天野の経済学は古典派と新古典派の境界に位置する。

Ⅸ.参考 天野為之の主要著書・翻訳書1884年  『徴兵論』東京:東洋館1886年  『経済原論』東京:冨山房、複製版早稲田大学(1961年)『商政標準』冨山房1890年  『経済学研究法』博文館『銀行論』(坪内善四郎編修)博文館1901年  『勤倹貯蓄新論』(講義)寶永館書店、東洋経済新報社1902年  『経済学綱要』東洋経済新報社(1924年改訂15版)1910 年  『経済策論』実業之日本社1911/13年 『実業新読本』(編著:全5巻)、1911年明治図書、1913年冨山房1891年   『高等経済原論』(翻訳:J.S.ミル原著/J.L.ラフリン編、天野為之訳)冨山房

1897年    『経済学研究法』(翻訳:J. N. Keynes, The Scope and Method of Political Economy, 東京専門学校出版部

1893/94年  謹輯・西村茂樹校定[1893] (1894)『小学修身経:尋常科生徒用』冨山房.謹輯・西村茂樹校定(1894)『小学修身経:高等科生徒用』冨山房

池尾愛子(2015)「天野為之と日本の近代化」『早稲田商学』441/442合併号

記録:葛野正彦(88期)

Ⅹ.講演風景  隨ャ266蝗槫・逵・NKM_3753隨ャ266蝗槫・逵・NKM_3760隨ャ266蝗槫・逵・NKM_3790隨ャ266蝗槫・逵・NKM_3790隨ャ266蝗槫・逵・NKM_3782隨ャ266蝗槫・逵・NKM_3794隨ャ266蝗槫・逵・NKM_3797隨ャ266蝗槫・逵・NKM_3805隨ャ266蝗槫・逵・NKM_3807隨ャ266蝗槫・逵・NKM_3810隨ャ266蝗槫・逵・NKM_3818隨ャ266蝗槫・逵・NKM_3821