【260回】8月『「役割語」と翻訳、村上春樹のことなど』

 

Ⅰ.日時 2024年8月21日(水)11時30分~13時00分
Ⅱ.場所 バグースプレイス パーティルーム
Ⅲ.出席者数 44名
Ⅳ.講師

金水 敏さん@87期

放送大学大阪学習センター所長、大阪大学大学院文学研究科名誉教授。

日本学士院会員。文化功労者。

 

1956年大阪生。六稜同窓会87期卒業生。放送大学大阪学習センター所長、大阪大学大学院文学研究科名誉教授。日本学士院会員。大阪女子大学助教授、神戸大学助教授、大阪大学大学院人文学研究科教授等を経て、2022年より現職。専門は日本語の文法の歴史および役割語研究。主な著書として、『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店、2003年。2023年に岩波現代文庫から復刊)、『日本語存在表現の歴史』(ひつじ書房、2006)、『コレモ日本語アルカ 異人のことばが生まれるとき』(岩波書店、2014年、2023年に岩波現代文庫から復刊)、『〈役割語〉小辞典』(研究社、2014年)ほかがある。

Ⅴ.演題 『「役割語」と翻訳、村上春樹のことなど』
Ⅵ.事前宣伝 役割語とは、主にフィクションで登場人物の年齢、性別、職業、出身地等によってあらかじめ予測される話し方のスタイル(語彙、文法、音調等の組み合わせ)のことを指す。役割語は日本語による創作物には必ず使用されていると言ってよいが、特に翻訳や吹き替え等では男女の性別が強調されて表現される傾向にあり、そのことに対する批判も聞かれるようになってきた。さらに、自ら翻訳をよくする村上春樹は、自分の小説の登場人物にあたかも翻訳作品のようなスタイルで話させることで独特の小説世界を生み出している。これらの事例を紹介しながら、日本語の現状と将来について皆さんと考えていきたい。
Ⅶ.講演概要 (本講演は昨年8月に台風来襲のため中止になった「役割語」の講演に新に「村上春樹」に関する考察を加えた内容で講演していただいたものです。)

第一部:「役割語と翻訳」

(例文を交えた豊富なお話でしたが、その概要を記してみました。)

  • ある特定の言葉遣いと特定の人物像が結びつく場合、その言葉遣いを役割語と呼ぶ。小説などでは役割語の使い方で、登場人物を彷彿とイメージさせる効果がある。自分の呼び方(一人称代名詞)と文末の形式が役割語を形成する主体となっている。
  • 役割語としては、(性別):男言葉、女言葉、少年語、お嬢様言葉、奥様言葉、オネエ言葉、(年齢別):老人語、幼児語、(職業・階層別):博士語、上司語、王様言葉、お姫様言葉、やくざ言葉、ヤンキー語、軍隊語、遊女語、(地域別):大阪弁、京言葉,九州弁、土佐弁、沖縄言葉、(時代別)武士言葉、公家言葉、遊女語、町人言葉、王様言葉、お姫様言葉、などがある。
  • このような多様な使い分けは英語では日本語ほど顕著でなく、性による表現の差も小さい。日本語では3~5歳の間に役割語の区別を習得し始める。「こてこての大阪弁」というのも現実の方言から離れてステレオタイプ化されている。役割語を品・格・性・年によりその違いを分析する試みがある。
  • 2003年以降、役割語のさまざまな実例を分析し、多数の文献や書籍として紹介してきた。なかでも『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』は英語や韓国語、フランス語に翻訳されている。
  • 役割語は社会における個体と共同体の関係をステレオタイプ化してつなげる手段の一つとなっており、日本語史的には現実社会での慣習をある程度反映しつつも、主に江戸時代の庶民文化の発展の中で育まれ、小説や演劇などの仮想現実の世界で定着してきた経緯がある。

 

第二部:村上春樹について

(金水さんの配布資料から)

  •  村上春樹氏はむろん国民的な人気を誇る小説家であるが、一方で小説を書く以前から今日に至るまで、主にアメリカ文学作品の翻訳を行ってきたこともよく知られる事実である。発行部数こそ小説作品の方が多いが、異なり点数で言えば翻訳出版は自らの小説に匹敵するどころか、それを凌駕するほどの力の入れようである。
  • さらに、村上春樹氏の小説が50を超える国・地域の言葉に翻訳され、もはや世界的作家と呼んでも差し支えない状況にある。このことの背景には、村上氏自身が自作品の英訳出版を積極的にプロモートし、それが功を奏したのだということを自ら語り、また検証もされている。自作品の日本国内における否定的な評価に反撥し、海外でも通用する作品であることを証明しようと考えたことが強い動機付けとなったと自ら述べている(村上 2015, 辛島 2018)。
  • 彼の処女作である『風の歌を聴け』を書く際に、村上氏は最初の部分をまず英語で書き、それを日本語に移し替えることによって独自のスタイルを得たと述べている。実際、登場人物のスピーチ・スタイルは、翻訳小説のそれに酷似していることが指摘できる。この作品を含む初期三部作(『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』)の主要な舞台は「街」とだけ書かれているが、そのモデルは明らかに彼の育った芦屋市であることも知られている。そうであるならば、芦屋で話されている関西方言を登場人物に話させることも選択肢にあったはずである(cf. 谷崎潤一郎『細雪』、小川洋子『ミーナの行進』等)。ここから、「村上春樹氏が初期作品で方言を用いなかったのはなぜか。また通常の小説話体でもなく、翻訳話体を用いたのはなぜか」という問いが生まれる。
  • この問題の背景としてある、日本近代における文学の話体と翻訳の話体の関係について考察する。両者は近い起源を持ちながら、一定の距離を保って発達してきた。その発展と交渉について整理を試みる。
  • 日本語が近代化していくなかで、とりわけ近代文学(特に小説)が果たした役割は大きい。標準語と非標準語が区別され、標準語内部に〈男ことば〉と〈女ことば〉が区別され、同時に敬語体系が整えられる仮定が近代化である。この時期、重要な役割を果たした作家の一人に、夏目漱石があげられる。
  • 標準語成立と時を同じくして、同じ源から翻訳話体が成立する。翻訳話体は、近代小説話体とは一定の距離を取り、現代の日本ではない世界という、独自の言語空間を作り出す機能を得るようになった。
  • 日本文学を牽引した作家には、故郷を離れ、上京して文学者となった人物が大勢いる。彼等は、郷里のことば=方言と、東京のことばと、小説のことばとの間でさまざまに引き裂かれ、苦しんで自らの文体・話体を切り拓いていった。そのような作家の一人として、大阪から上京して国民的作家となった川端康成がいた。
  • 村上春樹もまた、上京経験を持つ作家である。西宮・芦屋で少年時代を過ごし、神戸の高校に通った彼は、関西弁のネイティブ話者であったが、彼はあえて自らの作品から方言を遠ざけ、なおかつそれまでの文学作品で構築・継承されてきた文体・話体からも離脱しようとした。
  • 日本近代文学にとっては周縁的な都市である「芦屋」(ここは、村上春樹の“出発”の地でもあった)が村上春樹氏の作品の中で「街」と呼ばれ、そこに暮らす若者たちがあたかも翻訳小説のような話体で話すことによって、近代日本的な中心と周縁性が攪乱され、新たなスタイルの都市文学が創成された。近代的な価値が転倒されているという点で、ポスト近代的な小説世界の誕生と言えるであろう(cf. 江戸川乱歩、谷崎潤一郎、織田作之助、石牟礼道子、中上健次、小川洋子、谷川流、万城目学)。

 

 

Ⅷ.質疑応答

質問者1 橋口喜郎さん 78期

Q:村上春樹は海外経験が多いが、実際にカリフォルニアに住んだことはあったのか?

A:プリンストン大学へ長期に講師に行ったことがある。小説を通してアメリカを身近に感じていたのだと想う。

 

質問者2 山崎吉朗さん 84期

Q:村上春樹や小川洋子の小説はフランスでも人気がある。川端や大江より翻訳しやすい日本の小説となっているのでは?

A:はい、村上や小川は文章のスタイルを翻訳しやすい文体で書くことを狙って書いていた。日本の役割語は翻訳本では適切に訳せないので通常無視して翻訳される。村上の小説はそういう日本語のローカルな文体から昇華した形で書いているので、世界的にも翻訳本が多く出版されている。ただ時々、村上文学の中でも翻訳しにくい文体が出てくることはある。

 

質問者3 広本 治さん 88期

Q:放送大学の講義で役割語の濃さの言及があったが、村上は自分の小説を英語で書いたときはどうしたのか?

A:翻訳はNativeが書かないとうまくいかない。村上春樹の小説の翻訳も本人でなく5人ほどのNative Staffがやっている。

 

質問者4 石川真一さん 109期

Q:役割語の記録・検証について現代では大量の文字データがあるが、明治期以前の口語体の資料はどこから?

A:硬い文書は漢文調になるが、江戸時代から演劇の脚本は話し言葉で書かれた町人文化の資料として残っている。枕草子などでも坊さん,上流貴族会の男女、身分の低い者の言葉遣いの違いが垣間見られる。

 

質問者5 池尾愛子さん 87期

Q:江戸時代の裁判記録は言語分析に使えるのでは?

A:裁判記録はリアルな言葉として残っている部分がある。フィクションの歌舞伎やお芝居での記録などと合わせて分析することができる。

 

質問者6 角谷 歩さん 87期

Q:役割語・翻訳スタイルの変化のタイムスケールは? チャンドラーの娯楽本の翻訳版における村上のスタンスは?

A:翻訳も賞味期限があり、時代の変化に伴う改訳版がでる傾向がある。改訳版が改善になっているとは限らない。娯楽本の訳は抄訳版や全訳版がある。主人公の第一人称を「俺」にするか「僕」にするか「私」にするかは悩ましいことが多い。英語の本を日本語訳する場合は、役割語をどう埋め込むかは大事な点となる。

 

記録:記録者(家正則80期):講演者チェック済み

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Ⅷ.資料 「役割語」が切り開く、言語の地平(金水20240302)

履歴スライド

 

参考文献

辛島デイヴィッド (2018) 『HARUKI MURAKAMI を読んでいる時に我々が読んでいる者たち』みすず書房.

金水敏(編著) (2018) 『村上春樹翻訳調査プロジェクト報告書(1)』大阪大学大学院文学研究科(人文学クラスター)「役割語・キャラクター言語から見た翻訳研究」.

金水 敏 (2020)「村上春樹と関西方言について—遠心的/求心的な移動とポリフォニー」中村三春(監修)・曽秋桂(編集)『村上春樹における移動』pp. 23-40,淡江大学出版中心.

金水 敏他 (2011) 「第13章 大阪大学卒業論文より」『役割語研究の展開』pp. 249-262.

柴田元幸 (2005) 「『アメリカの鱒釣り』革命」ブローティガン、リチャード(著)藤本和子(訳)『アメリカの鱒釣り』新潮文庫版、pp. 261-268.

田中ゆかり (2011) 『「方言コスプレ」の時代』岩波書店.

田中ゆかり (2016) 『方言萌え!? ヴァーチャル方言を読み解く』岩波ジュニア文庫.

田中ゆかり (2021) 『読み解き! 方言キャラ』研究社.

中村桃子 (2013) 『翻訳がつくる日本語—ヒロインは「女ことば」を話し続ける—』白澤社.

水野 的 (2024) 『日本人は英語をどう訳してきたか:訳し上げと順送りの史的研究』法政大学出版会.

三好敏子 (2009) 『「おばあさん」の役割語』大阪大学文学部卒業論文. 金水他 (2011)に要約が所収.

村上春樹 (2015) 『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング.

村上春樹 (2017) 『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』62-65頁、中央公論新社.

村上春樹・柴田元幸 (2000) 『翻訳夜話』文春新書, 文藝春秋.

芳川泰久・西脇雅彦 (2013) 『村上春樹 読める比喩事典』ミネルヴァ書房.