【256回】4月「現代美術と私」

Ⅰ.日時 2024年4月17日(水)11時30分~13時00分
Ⅱ.場所 バグースプレイス パーティルーム
Ⅲ.出席者数 41名(会場 29名、zoom 12名) うち79期 会場8名、zoom 4名
Ⅳ.講師

井上 直さん 79期(画家)

1982 個展(ギャラリー 手、東京)

1983 個展 (ギャラリー Q、東京)

1984 個展 (ギャラリー Q、東京)

1986 個展 (ギャラリー手、東京)

1990 個展 (日辰画廊、東京)

1991 第20回現代日本美術展

1992 第21回現代日本美術展 賞候補

1993 第22回現代日本美術展

000000個展 (日辰画廊、東京)

1994 第23回現代日本美術展

1995 第24回現代日本美術展 東京国立近代美術館賞

1996 超女流展 (大川美術館、群馬)

1997 第26回現代日本美術展 賞候補

000000個展 (日辰画廊、東京)

1998 多摩秀作美術展 (青梅市立美術館)

000000第27回現代日本美術展

1999 点から展へ ’99 (Space u、群馬)

000000The Millennium Exhibition (Modern Art Gallery、ロサンジェルス)

2000 International WaterMedia 2000 (Gallery of Contemporary Art、コロラドスプリングス) 銀賞

2001 アート G. アースリング展 (有鄰館、群馬)

000000個展 (日辰画廊、東京)

2002 多摩秀作美術展(青梅市立美術館、東京)

2004 個展(アートスペース・キムラ ASK?、東京)

000000ルタン選抜展 (るたん画廊、東京)

2005-6  岡島弘子、水野るり子、相沢正一郎と共に長編同人詩誌「ヒポカンパス」に参加

2006 ヒポカンパス詩画展(アートスペース・キムラ ASK?、東京)

2007 ”茶色の朝”展(ナノリウム、山梨)

2008 個展(アートスペース・キムラ ASK?、東京)

000000Art AsiaーMiami Art Fair(ギャラリーQ ブース)

2009 Exhibition”The Clear Landscapeー透明な風景”(ギャラリーQ、東京)

000000個展(ギャラリー・ブロッケン、東京)

2010 ゴールデン・コンペティション(O美術館、東京)

2011 個展(アートスペース・キムラ ASK?、東京)

2013 「二年後。自然と芸術、そしてレクイエム」(茨城県近代美術館、茨城)

000000「開館25周年記念大川美術館の軌跡」(大川美術館、群馬)

2014 個展(アートスペース・キムラ ASK?、東京)

2017 個展(アートスペース・キムラ ASK?、東京)

2019 アートスペース・キムラ ASK?より画集「NAO INOUE」発刊

2020 第23回岡本太郎現代芸術賞展

000000Face2020 (損保ジャパン日本興亜美術賞展)

2021 個展(アートスペース・キムラ ASK?、東京)

2023 個展(コバヤシ画廊、東京)

 

◆Collection

1995 東京国立近代美術館

2001 大川美術館

Ⅴ.演題 『現代美術と私』
Ⅵ.事前宣伝 初個展からもう42年になりました。今日は「現代美術」という聞きなれない分野の話と「白衣」を扱っている私の作品を見ていただき、どうしてそんなものを扱っているのかうまくお伝えできれば、と願っております。
「現代美術」というのは美術史において20世紀後半の第2次大戦後(1950年以降)から21世紀までの美術を指しています。特にコンセプトが大事になってきた1970年以降の美術を指すことが多いです。そのきっかけを作ったのはマルセル・デュシャンという作家で、男性便器を「泉」と名付けて展示したことで有名です。作った人だけで作品が完成するわけではなく、見る人、即ち鑑賞者が「作品を起点に思考を巡らし、鑑賞者の中で作品が完成すること」が現代アートなのだという新しい考え方を生み出した人です。しかしそう言われてもよく分かりませんよね。私の作品を見ていただきながら少しずつ分かっていただければと願っています。【紹介者 樋口容視子さんの言葉】

高校1年生から交流、卒業後海外での生活が12,3年続き、画家になられたことは帰国後知りました。帰国後個展に誘われ、その場で所望しましたが画廊では売ってもらえず、自宅まで押しかけ、「女たちの森」というペンシル画をゲットしました。これまで個展には欠かさず伺い、同期の皆で会食をするのも楽しみにしています。井上さんの絵は、最後まで時間をかけて丁寧にゆっくりと描かれ、一つが大きい、ピュア、ストイック、純粋なところに特徴があると思っています。

Ⅶ.講演概要 初めまして。井上 直と申します。本日はお忙しい中をおいでいただきまして、ありがとうございます。今日は「現代美術」という聞きなれない分野の話と病院のお医者さんが着ている「白衣」を扱っている私の作品を見ていただき、どうしてそんなものを扱っているのかうまくお伝えできれば、と思います。「現代美術」というのは美術史において20世紀後半の第2次世界大戦後、1950年以降から21世紀までの美術を指し、特にコンセプトが大事になってきた1970年以降の美術を指すことが多いです。そのきっかけを作ったのはマルセル・デュシャンという作家で、男性便器を「泉」とタイトルを付けて展示したことで有名です。作った人だけで作品が完成するわけではなく、見る人、即ち鑑賞者が「作品を起点に思考を巡らし、鑑賞者の中で作品が完成すること」が現代アートなのだという新しい考え方を生み出した人です。しかし、そう言われてもよく分かりませんよね。私の作品を見ていただきながら少しずつ分かっていただければと願っています。(資料2枚目)これは私の略歴です。今日、私を紹介して下さった樋口さんはごく初期の個展から見て下さっていました。本当にありがたく思います。まず生まれは「富山」で3才まで居ました。

・私の色彩感覚が白から黒に至るトーンを軸にしていること

・暖かさより冷たさを好み、シーンとした世界が好きなこと

・そして油より水─それも透明な水を好む傾向があること

このようなことはもしかしたら生まれた場所のせいではないかと思っています。

どんな人も子供から大人に至る成長過程で様々な挫折を味わうわけですが、私の場合も高3で肋膜のため4ヶ月休学しました。担任の田上泰昭先生の影響を受けてボーヴォワールやサルトルを読み始め、みんなが受験勉強をしている時に家で本ばかり読んでいました。丁度その年は1966年、サルトルとボーヴォワールが日本に来た年です。その2年前、サルトルはル・モンド紙で「文学は飢えた子を前に何ができるか?」と世界に問いかけ、田上泰昭先生のクラスでは国語の授業を潰して皆でこの問題について話し合った記憶があります。アンドレ・ジイドの「一粒の麦地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし。」は、忘れられない言葉です。私が、コンセプトが大事とされる現代美術に興味を持ったのもそんな理由ではないかと思います。

 

(資料3枚目)

絵をやるようになったのは結婚し、子供達が幼稚園に行きだしてからです。台所のテーブルで鉛筆だけで描きだしました。

一応デッサンだけは自由美術の先生について3年間勉強し、鉛筆だけで制作を始めました。1982 年初個展を開いた「ギャラリー手」は当時の美術を牽引していらっしゃる方たちが多く出入りしていらした画廊の一つでした。

これらはキメの細かいケント紙に「鉛筆」だけで描いた初個展の作品です。「絵を描くこと」と「自分自身を見つめること」が同じことだ、と思っていて、私という人間の奥にあるものを正直に出そうとしていました。そうすれば、それはきっと他の人の心の奥にもある、と信じていました。左の「最も静かな時刻」は同じような構図で、絵の上や絵の周囲に文字を書いたりして3枚ほど描いています。右の「命の海」も3部作で海に浮かんでいるものがだんだん増えていくような表現を試みています。8Hという薄い色から6BやEB と呼ばれる濃い色の鉛筆のトーンが大好きで、約10年もやっていました。

 

(資料4枚目)

左の絵は縦160cm横210cm と大きな作品で、中性ケント紙に描かれており、毎日新聞社主催の「現代日本美術展」に初入選した作品です。「現代日本美術展」は全国から1500点位の応募数で150点位入選する結構レベルの高い美術展でした。当時はバブルの終わり位で、美術の世界にもお金があり、各美術館が美術館賞を設けていたので、多くの作家が目標にしていました。ここにカタログを持ってきていますので、ご興味がおありになる方がいらしたらご覧になって下さい。素晴らしい作品が沢山載っていますし、錚々たる方達が審査員です。私は大きなケント紙が日本にはなかったので、ニューヨークからロールで輸入しました。それまで描いてきた「日常のもの」と「線」、「小鳥、ヤモリ」等を「カレンダー」を中心に描いて、私の生きてきた時間が見えてくることを意図しました。

右の絵は「伝説の森で」という作品で、やはり現代展に出した作品です。まず刷毛でアクリル絵の具を載せ、上に5ヶ月かけて落ち葉を描いて、木炭で瞬間的な線を入れるという仕事です。

現代日本美術展に作品を出すようになり、結局は7回参加したわけですが、他の作家たちの作品を見たことは自分を客観的に見る上で大変よかったと思います。私は鉛筆を使ってじっくりものを見る「時間」と、鋭い線で引いた「瞬間」という「時間」を対比させ、時間を目に見えるようにしたいんだ、と自覚しました。今日、始めてお聞きになる方には分かりにくいと思うので、簡単な図式にしてみました。

 

(資料5枚目)

「死」をどう考えるか、は人それぞれです。これは私が高3の時に田上泰昭先生に教わりました。確かレマルクの「凱旋門」のお話をして下さった時だと記憶しています。主人公のラビックが「サリュート」と言って乾杯する。でも、彼は「あれはあの時に終わりにしなければならなかった」というようなことを言う。18歳の私はその意味が分からなかった。時間というものについて考えたことがなかったのだと思います。私たち人間は「誕生」から「死」まで一方通行の時間を生きているわけで、それを今、グレーの線で表します。若い方はこの辺り、私はもうこの辺りです。ただ人間はその時間だけで生きているわけではないと先生はおっしゃいました。それに属さない時間、一瞬のうちに「永遠」を感じる瞬間があると。子供の頃初めて海を見た時、初めて人を好きになった時、あるいは夫婦がこれが最後だと思って一緒に桜を見る時、一瞬のうちに「永遠」を感じる時間が人生にはあるはずで、それを今、青の線で表してみます。時々この青の瞬間を味わうためにはグレーの時間を縮めてもかまわない、と思う人もいます。グレーと青が交差するこのオレンジの瞬間、人は自分の生きているこの「生」を、どんなにか愛します。しかしそれは二度と味わえないのですから、その時人は人生を愛すると共に「人生の哀しみ」もまた味わう─「愛」は「哀」と重なるのではないかと先生はおっしゃいました。遅かれ早かれ、全ての人に「死」は来ます。私にとって「絵を描く」とは、一瞬のうちの「永遠」を留めようとする行為に近いと思います。

 

(資料6枚目)

1992年に私はアトリエで使っていた白衣をデッサンして左側の作品にしました。そして出来上がってみると、「人間」その中でも特に「現代の人間」を表すのに「白衣」は向いているように思いました。現代の人間は、多少なりとも個性を奪われていて、空白感から逃れることができません。「人間の価値」とか「人間の生涯」とか「人間の尊厳」とか、私たちは「人間」という言葉をよく使います。それは人種や性別、それに年齢を越えています。しかし言葉や概念としてはあっても、美術に表されたかたちとして「人間を表すもの」はない。この絵をきっかけに私は「鉛筆」と別れ、「白衣」で「人間」を表そうと思い始めました。「白衣」は作者である「私自身」であり、鑑賞者自身にもなるわけで、マルセル・デュシャンの言った現代美術の始まり、「作品を起点に思考を巡らし、鑑賞者の中で作品が完成すること」にもなるな、と思いました。

それから2年後の1994年に、「最後の朝」という作品を描き、それが思いがけなく東京国立近代美術館賞を頂きました。今、この作品を見ると、塔の上の白衣は個別の人間の最後の姿とも見えますし、人類の最後を象徴しているようにも見えます。 当時私はスタニスラフ・レムという人の「砂漠の惑星」という本を読んでいました。レムは「ソラリスの陽の下に」という小説で有名なポーランドの作家です。ポーランドでは日本における夏目漱石のような存在です。「砂漠の惑星」には地球外生命が出てきて、私たちは、人間を人間たらしめている最低限の要素って何だろう? と考えさせられます。私も地球外生命のようなものを描いて、どこかSF の世界を連想させるような試みをしています。

 

(資料7枚目)

1996年私は桐生にある大川美術館の「超女流展」という企画に参加することになりました。しかしその頃、プライベートな生活に事件が起こりました。25年一緒に居た夫に癌が見つかり、すぐ手術したのですが手遅れで、残り時間が限られているという深刻な事態になりました。当時の私としては「超女流展」のために何か描くとしても、その状況を描くしかなく、これは「もしその時が来て自分に死の使者が訪れるとしたら、どんな場所で会いたいだろうか?」と思って描いた絵です。「使者を待つ森」といったタイトルです。大川美術館の故大川栄二館長には多くのことを教えていただきました。また松本竣介を初めとする美術館の作品から様々なことを学びました。左の絵は大川館長に非常に気に入っていただけて、今は大川美術館に収蔵されています。

1997年3月に夫はホスピスから自分で挨拶状を出し、家族に見守られて他界しました。右の絵は当時の空虚な気持そのものです。「25時のアリア」というタイトルです。

 

(資料8枚目)

私が状況を受け入れるまで、だいぶ時間がかかりました。その間、死後の世界を色々と想像したりもしました。この絵はその表れで、「レクイエム」というタイトルです。

 

(資料9枚目)

この絵はドローイングですが、同じ絵を2012年にキャンバスで描き直しています。夫の死後、私は晴れている限り多摩川へ出かけました。ただ夕陽を見て帰ってくる、それで何とか日々をやり過ごしました。多摩川べりを見ると、あちこちにポツンポツンと人が立って夕焼けを見ていらっしゃる。何千年も前から続く夕焼けの中に立っていると、52才で逝った夫も平均寿命まで生きたとして87才の私も、そう違いはない、誤差の範囲じゃないか、二人共100才には届かなかった、と思えばいい、そう思うと何だか救われる気がしました。「千の種族」というタイトルです。悲しみはそれぞれ違っていて、千人の人が居たら、千種類の悲しみがある、ということからつけました。2013年の茨城県近代美術館の「二年後、自然と芸術、そしてレクイエム」という展覧会のポスターになりました。

 

(資料10枚目)

夫の死から5 年ほど経った頃、私はポーランドに出かけました。多くの人が犠牲になった歴史を持つ国に行き、「個人の悲しみ」が個人を越えた「集団の悲しみ」に繋がり、「全ての人間の悲しみ」に繋がっていくことができるだろうか、という気持もありました。しかし、アウシュビッツの衝撃は大きく、しばらく画面に向うことができませんでした。これは半年経ってようやく描いた絵で、「森林におおわれて」というタイトルです。犠牲になった方と傷を持った大地に対する、ある意味での「レクイエム」です。大きな絵で縦約2m、横約3.5m あります。昨年5月のコバヤシ画廊での個展で20年ぶりに展示しましたので、ご覧になって下さった方もいらっしゃると思います。20年経ってみますと、何だか屏風のようで、自分が日本人だなぁと思いました。

 

(資料11枚目)

私は、都心に出た帰り道、電線に布切れが纏わりつき風に揺れている様子を見て、あれは私だ、と思ったことがあります。 この「V 字鉄塔」というのは実際にカナダや南アフリカで見られる鉄塔です。少し見えにくいかもしれませんが、空には電線が放射線状に伸びており、見る人は柵の内側に居ることを感じさせるように描かれています。夫は雷の研究者で、世界中の鉄塔を調査していたので、遺品の中に沢山鉄塔の写真が残っていました。そこからイメージした作品で、縦約2m、横約3.9m の大きな作品です。

2020年に第23回岡本太郎現代芸術賞展に入選しました。

 

(資料12枚目)

右の絵は2013年茨城県近代美術館の「二年後、自然と芸術、そしてレクイエム展」にも展示されました。両方の絵には「亡くなった人」と「残された人」が対面するようなかたちで描かれていますが、水平線へ「亡くなった人」を追っていく視線は、残された人へ繋がり、手前へもどってくるようにも見えます。そこには「生」から「死」へ、「死」から「生」への繋がりが感じられます。残された人は折にふれ亡くなった人と対話しながら残りの人生を生きていくわけです。いずれは自分も死者の仲間入りをするわけですから、亡くなった人から「生きる意味」さえ教えてもらうことがあります。そうやって死者は生きている人の中で生き続け、それが積み重なって人の歴史は創られてきたのではないか。そして、もし死者の声が聞こえるような気がした時、あるいは死者を呼ぶ声が届いたような気がした時、それは「永遠」につながる一瞬と言えるのではないか、と思いました。私の絵は一応現代美術の中に入るわけですけれども、私自身は自分の中にある普遍的なものを追っていき、その結果、「生」と「死」、そして「時間」、人間にとって時代を越えて重要なものに辿り着いたということだろうと思います。そのような抽象的なものをかたちにするために「白衣」を必要としたのです。この絵の中で白衣は生きている人間でもあり、死者にもなっています

 

(資料13枚目)

初個展から30年位経ったある日、自分がこのまま絵を描き続けて死んだら、私は自分の一生をどういう風に思うだろうと思いました。しばらく考えて、私は自分が『美術』という大きな象を飼っていた、と思えばいいじゃないかと思いました。また、しばらく考えていると、いや、サラリーマンの人だってビジネスという象を飼っている、農業をしている方だって稲や野菜を育てるという象を飼っている、と思うはずだと。そんなことからこの絵が生まれました。200号の大きな絵です。この絵の中でこちら側にはもう死んだ人、あちら側はまだ生きている人、その途中の人もいて、全て「白衣」で表現しています。

 

(資料14枚目)

2008年にギャラリーQがマイアミ・アート・フェアーに作品を持っていってくれまして、「答唱」は初日にNew Yorkの画廊に売れました。でも、どうやら転売目的だったようで、その後、絵はどこへ行ったか分からなくなってしまいました。悔しかったので、元の小さい絵を大きく描き直しました。考えてみると、儀式のように輪になって集まっているのはとても「人間らしい行為」です。それを強調するために元の絵にはいなかったトナカイを加えてあります。

 

(資料15枚目)

左の絵は「森の夜」と題する縦194cm横164cmの絵です。白衣は複数いますが、皆孤独です。雪の面に樹木の影が波打っています。こういうシーンとした空気が好きで何度か描いています。

右の絵は「森の奥へ」、縦162cm横130.3cmです。ポツン、ポツンと人が森の奥へ消えていきます。先はホワイト・アウトしていますから見えません。死の象徴であるカラスが一羽飛んでいます。

 

(資料16枚目)

これは大川美術館に収蔵されている「使者を待つ森」をもう一度キャンバスでやり直してみた作品です。水に映った部分と実際の部分が対照的に描かれていますが、水面は一部色が変えてありますし、落ち葉が浮かんでいます。「晩年」というのは皆どこか自分を見つめながら「使者を待つ森」に居るのではないでしょうか。

 

(資料17枚目)

これはコロナのせいでずっとできなかった個展を、4年ぶりでした時に発表した「谷戸の蛍」という作品です。カナダの作家アン・マイクルズが「儚い光」という本の中で「わたしは知っている。なぜ人びとが死者を土に埋め、そのうえに考えうるかぎりいちばん重く永続的なものである石をのせるのかを。そうしないと大気のなかに死者がみちあふれてしまうからだ。」と。その文章をイメージして描いた世界です。蛍の丸の中に白衣が入っています。

 

(資料18枚目)

これらは右も左も164cm四方の作品です。

左は「月明かりに」というタイトルで、夜、星空の下、シシリアのカタコームの間を重そうに荷物を運ぶ白衣がいます。カタコームというのはカタコンベとも言って、死者を葬る埋葬場所のことです。2020年の損保ジャパン美術賞展に展示されました。

右は「兆しだけになった羽ばたき」というタイトルです。こちらはスパルタの遺跡の上を白衣が飛んでいます。丁度ウクライナで戦争が勃発していました。戦さの民であるスパルタは隣国を侵略していたわけですが、現在のロシアも同じことをしているという暗喩を込めて描いています。

 

(資料19枚目)

左の絵は「旅の終わり」というタイトルで162cm四方の作品です。旅が終わって、船のオールも倒しているようだし、船着場の葦も力尽きたように倒れている。私は、自分の最期はこんな感じかな、と覚悟しています。

右の絵は「ここからは未知の場所」。やはり真四角の作品です。森の中へ人が順番に入っていく。地面は歩きにくそうです。どんなことが待っているのか分からないけれど、歩くしかないようです。

両方とも人の生涯のある場面を象徴的に表現しようとしています。

 

(資料20枚目)

皆さんの中には、様々な分野で活躍し、お仕事をやり終えた後、充実した人生だったな、とお思いになる方もいらっしゃるでしょう。そんな方ならこんな風に旅立てるかもしれません。縦162cm、横194cmの「黄金色の船出」です。

お分かりのように最近の私の絵は「生」と「死」、それを巡る「時間」が色濃くテーマになっています。もっと明るく、楽しい、幸せな絵は描けないのか、と問われたことは一度や二度ではありません。「表現とは作品の泣き顔のことなのだ。」と言ったのは哲学者のテオドール・アドルノです。少し前に表をお見せしましたが、人間は死すべき運命を背負った存在なのですから、時を「愛する」ということと、「悲哀」を感じるということとは切っても切れない裏表の関係にある。それを表現する作家でいたいと願って「白衣」を選んでいます。これで最後ですので、これでも私の中では比較的明るい作品を選びました。

本日は私の個人的な長い話を聞いて下さって、本当にありがとうございました。

 

 

質疑応答

質疑応答については、講演者とも相談し、概略を記すことにしました。

 

会場では、橋口喜朗さん@78期、簑島紘一さん@75期、秋下貞夫さん@69期、黒岩暎一さん@75期、オンラインでは、広本治さん@88期からそれぞれご質問、ご意見がありました。

 

印象に残ったお話としては、

高校時代、美術部に在籍しておられた時期の思い出(美術部顧問の岡島先生のこと、下校時に登校してくる定時制高校生とのすれ違いのことなど)。

画材として、油ではなくアクリル絵具を30年以上使って描かれるようになったこと。

絵を描くのは、組織で働く人と違い、若い人も後期高齢者も同じ土俵に立つので、高齢になると感性や体力で劣る分、哲学的なものの見方をするようになるのではないか。

良い線を描くために、スケッチブックと4Bの鉛筆を持ち、何年もジャズ喫茶に通い、一晩で1冊のスケッチブックを描き、山のように線が溜まったこと。

お好きな音楽(グレン・グールド)や映画(最近のウクライナ映画祭)のこと。

 

(ご参考)

以下のアドレスに、講演者のブログがあり、近況や個展のお知らせが出てきます。2012年3月1日に「K高校美術部」という記述があります。

The daughter of Eve’s Blog | Just another a Happy Blog2 site (a-happy.jp)

 

 

記録:山本直人(85期)

Ⅷ.資料 東京六稜会2024-04-17 井上 直さん資料★確定版