【241回】1月「人も会社も変わってナンボ」

Ⅰ.日時 2023年1月21日(土)14時~15時30分
Ⅱ.場所 Zoomによるインターネット開催
Ⅲ.出席者数 63名
Ⅳ.講師 村上 雅洋さん@89期(日清紡ホールディングス㈱代表取締役社長)

1958年大阪市生まれ、1977年北野高校卒業。
1982年滋賀大学経済学部を卒業し、日清紡績㈱(現 日清紡ホールディングス㈱)に入社。
約20年に亘り5つの事業場にて工場の労務管理を経験、本社人事を経て研究所で新規事業の立ち上げに従事した後、秘書・法務・財務経理・経営戦略の職を転々とし、2019年より代表取締役社長(現職)。詳しくはこちら

日清紡ホールディングス(株)ホームページ (nisshinbo.co.jp)

Ⅴ.演題 人も会社も変わってナンボ
Ⅵ.事前宣伝 創立116年を迎える日清紡という会社は、「事業活動を通じて社会に貢献する」ことを使命とし、繊維からエレクトロニクスへと事業を変革しています。なぜ事業ポートフォリオを変えると決めたのか、どうやって変えていったのか。自身が関与した直近16年の取り組みを中心に、失敗からの学びと経営トップとしての今の想いを織り交ぜてお話しします。未だ道半ばの事業変革を加速する上で、何を心がけ何に留意すべきか、様々なご意見を頂く機会になれば幸いです。
Ⅶ.講演概要 紹介者は同期の白石俊己さん。村上さんはバスケットボール部に所属しておられました。当時から人の話をよく聞くタイプで、その上品で物静かな佇まいから、女子部員の間では大層モテていたそうです。私は村上さんとは同窓会で名刺を交換して近況を語り合う仲ですが、会うたびに彼が話してくれる仕事内容が、日清紡という社名から連想するような繊維業とはかけ離れており、ずっと不思議に思ってきました。日清紡とは、本当はどんな会社なのか、そこでどんな活躍をされてきたのか、本日はゆっくりとお話を伺いたいと思います。

0.はじめに

北野のバスケットボールの授業で実習したピボットを覚えておられるだろうか?自分にボールが回ってきたら片方の足を軸と定め、軸をフロアに固定して、全身を使って敵の攻撃をかわしつつ味方に最適なパスを投げる。ピボットが上手い選手が強い選手と言われる。

ピボット:ボールを持っている状態で片足を軸足(ピボットフット)とし、もう一方の足(フリーフット)を使って動く攻撃の基礎技術。

1.何をやっているのかは知らない♪会社とは

・日清紡ホールディングス(株)の概要:1907年設立(創業115年)、資本金277億円、グループ会社は125社(国内39海外86)、従業員数約2万人、年間売り上げは約5千億円強。

・「日清紡~♪名前は知ってるけど~♪日清紡~♪何をやってるかは知らない~♪」CMはこちら

・CMを放映するのは年間で約3週間のみ。B2C(取引相手が一般のお客様)ではなくB2B(取引相手が企業様)なのでこれで充分。自虐的CMと人からよく言われるが、私は本当の事を言っているだけのCMだと思っている。

・主軸事業は、無線・通信事業、マイクロデバイス事業(半導体)、ブレーキ事業で、周辺事業は精密機器事業、化学品事業、繊維事業、不動産事業、その他となる。

無線・通信事業

・防災・気象サービス(ゲリラ豪雨対応フェーズドアレイ気象レーダー、ため池監視システム)

・ローカル5Gシステム(千葉県の実験施設と群馬県の開発拠点の間で実験データを瞬時に共有。 都市内高速道路の情報を遠隔管理するシステム、日本初の実証実験中)

・自動運転システム(カメラにレーダー機能を持たせて安全に走行する)

・大型ドローンの衝突回避システム

・自動運航船システム(スマートシップの無人航行、安全運航、運航業務支援、環境負荷低減)

・メディカル機器(携帯型超音波診断装置による遠隔医療・在宅医療の実現)

・介護分野への応用(カメラを使わない見守りの実現化、プライバシーの保護)

マイクロデバイス事業 つながる社会に不可欠なアナログ半導体の提供

ブレーキ事業 自動車のブレーキ摩擦材、世界シェア1位

精密機器事業 車のヘッドランプ向けの高性能レンズ(LEDランプの普及で、車体のレンズはガラスからプラスチックへと軽量化が進む、レンズには高い精度が求められる)

化学品事業 土に還る”環境に優しいレジ袋”に代表されるような生分解性プラスチックへの添加剤(分解反応が開始されるまでの時間を制御する添加剤)

繊維事業 ノーアイロンのシャツ

2.事業ポートフォリオ変革

2-1.多様性企業集団誕生の背景

・1907年設立の日清紡績(株)は綿紡績の会社だった。

・戦中戦後に繊維の技術をベースにブレーキ事業、化学品事業、紙事業などを開始。事業が多角化してゆく。

・戦後、資金援助していた日本無線や新日本無線を買収することとなる。これをきっかけに日清紡は、繊維技術を展開した多角企業から繊維以外の事業も行う多様性企業へと変わっていった。

・日清紡は綿紡績の会社として誕生した。現在はエレクトロニクス事業と世界トップシェアを誇るブレーキ事業が主な収入源となっている。日清紡は、歴代の経営者たちが、祖業の繊維業にこだわらず、変化を恐れず、時代の先を読みながら、異業種事業を取入れて1つの会社として団結させ、それぞれの事業を大切に育ててきた。その結果、戦前戦後の時代から現代まで、社会の産業構造が大きく変わっても新しい時代に適応し、100年以上にわたり大きく発展し続けてきた会社である。

2-2.私が関与した直近の取り組みについて

・2006年、私が秘書部長に就任した時、会社はちょうど創立100周年を迎える頃だった。私は社長の側近の1人として、経営の長期的な戦略と方針(事業プラン)を考えるようになった。企業としてこれから何を目指せば良いのか?

・当時の日清紡は社会が求める事業構造から乖離していた。

・会社が生き残るためには変化が必要だと反省し、次にどんな変化が必要かを議論した。

・そして人間社会が直面する課題に対し、何か解決策(ソリューション)を提供できる企業へと変化すれば、社会から広く求められる企業となり、結果的に会社が持続的に成長できるはずだと考え、次の100年に向けて事業のポートフォリオを大きく変革させる事となった。

・当時の大きな課題は、環境問題(地球温暖化問題)、エネルギー問題、スマート社会の実現化。

・会社を変革する手段として事業を組み替える事となり、この時から私は新規事業の育成とM&A(合併と買収)の仕事に取り組む事となった。

・ただし、新規事業の立ち上げはなかなか上手くいかず、実際はM&Aとカーブアウト(事業の譲渡)を行ってきた。

・私はこれまでに講演資料(23/35)に示したすべてのM&Aに関与してきた。(赤文字:エレクトロニクス関連事業、青文字:エレクトロニクス以外の既存事業、黒文字:譲渡した事業)

・M&Aによりグローバル拠点への展開が進んだ。

・TMD(ドイツのブレーキ会社)のM&A:ブレーキ事業で世界シェア1位を取るためのM&Aには成功したが、海外拠点ということで、DDに限界があり、PMIが稚拙だったため、事業を黒字化するまで10年もかかった。

・REDC(リコーのアナログ半導体)のM&A:細かく好意的なDDと新旧経営陣が意思疎通を図る丁寧なPMIが実行できた。M&Aの成功例。アナログ半導体からデジタル技術も兼ね備えたアナログソリューション企業へと、さらにM&Aを進めている。

・日清紡ペーパープロダクツのカーブアウト:70年続けてきた製紙事業は、変革を進める日清紡の事業方針から乖離していたために製紙を本業とする大王製紙へ譲渡、譲渡後も新オーナーの元で製品の強みが発揮できるよう丁寧にフォローし続けた。

DD:M&A成立前の企業の事業価値やリスク等分析・評価する調査活動

PMI:M&A成立後の統合プロセス

3.方針転換の心がけ

3-1日清紡の新しい方針

・事業活動を通して社会に貢献してゆくのが我々の使命である。

・企業理念は「挑戦と改革。地球の人びとの未来を創る」

・事業方針「環境・エネルギーカンパニー」グループとして、超スマート社会を実現する。

・戦略的事業領域「モビリティ、インフラストラクチャー&セーフティ、ライフ&ヘルスケア」

 3-2新しい方針に向けて(方針転換の心がけ)

・会社は利益を増やす事が重要だが、それには正しく儲ける事が必要。つまり不正やズルをして儲けてはいけない。

・失敗は咎めないが、不正は罰する。

・大事なのは常に変化していくこと。

・D&I活動:自分自身も多様な人間の1人。人権重視。

・DX:デジタル技術を活用し、生産や販売、更には事業の変革を進める。

4.会社生活での学び

・私が北野高校に進学したのは、生家の隣に住んでいたおばちゃんの影響がとても大きい。教育熱心な人で、私が幼かった頃より「うちのお兄ちゃんみたいにならなあかんよ(大きくなったら高校は北野、大学は京大へ行って将来はお医者さんになれ)」という言葉を何度も何度も刷り込まれて育った。このご婦人の息子さん(お兄ちゃん)が65期の森惟明先生で、私が小さかった頃には京大の医学部で活躍されていた。私は京大へ進学できなかったし、医者にもならなかったが、私にとって森先生は隣のお兄ちゃんで、私の子供時代は家族ぐるみで大層お世話になっていた。

・就職先に日清紡を選んだのは、モノ作りの会社でしかも学閥や派閥のない会社だったから。

・最初に与えられた仕事は、主流から外れた間接業務だった。工場に付随していた女子寮の舎監と、女子寮に併設されていた企業内学園の責任者となり、15才から22才までの女子社員約400名の世話をした。彼女たちは交代勤務体制で働いていたので、私の勤務時間は有ってないようなものだったが、「人が気持ちよく働いてこそ生産性が上がる、それが会社のためになる」というやりがいをもってがむしゃらに働いた。毎日のように彼女たちの要求を聞いて、人間関係のトラブルを解決したり、進路相談にも乗ったりして、彼女たちの成長を支援した。学び1「人は理屈で動かない」

・次に配属されたのは工場の労務管理だった。工場の人たちが少しでも働きやすくなるように、新しい仕組みをいくつも考案した。しかし「大過なく仕事を終えるのが美徳」とされた時代で、協力してくれる人がほとんどおらず、改革はうまくいかなかった。学び2「多くの人が変化を嫌う。安定が心地よい」

・次に、研究所でバイオ関連の新規事業の立ち上げの責任者となった。専門外のバイオや経営の勉強をして、さんざん苦労して立ち上げた事業はうまくいかず、潰された。学び3「MBAの教科書通りに事業は進まない」「ノーリスクが最大のリスク」

・新規事業立ち上げの仕事は、後から考えると良い経験となったが、当時は成果主義が流行していたので、結果を出せなかった私は事業責任を取って懲罰される事を覚悟していた。しかし解雇も降格もされなかった。

・次の仕事が社長秘書で、これがきっかけとなりM&Aの仕事を始めた。部署を転々としながら、法務の立場・財務の立場・経営戦略の立場とあらゆる立場からM&A業務を経験することとなり、これが大変勉強になった。学び4「ぼちぼち進める漸進主義と温情主義が改革の邪魔をする」(改革するなら冷徹に)「意思決定は理屈が勝る。しかし成功するかどうかはメンバーの腹落ちにかかってくる」

・社長に就任してからは現場の声を沢山聴くようにしている。学び5「裸の王様にならない」

5.人も会社も変わってナンボ

バスケットボールでは、ピボットが上手い選手が強い。

私がこれまで仕事を通して学んできたこと(本文:学び1~5)が私の人としての軸になっている。そして会社としての軸は、事業活動を通して人間社会に貢献する事と、多様な人材が事業を支えるという考え方。バスケットボールのピボットのように軸をしっかり持っていれば、後はどんどん変えていけば良いのだ。大切なのは、常に変わってゆく事。変化には失敗するリスクが伴うが、業務の失敗は罪にはならない。失敗してしまっても、失敗を上手く活かせば糧となる。

失敗を許さない風土は不正を生み、失敗を許し活かす風土がイノベーションを生む。

質疑応答

浦勇和也さん 88期

Q: 近年大きく展開されているエレクトロニクス事業は、多くの技術者がいないと成り立たないと思います。どのようにして人材を確保されたのですか?

A: 今や私たちは技術系の会社ですので、多くの技術者がいないと成り立ちません。技術者の採用と入社後の教育には特に力を入れています。人材の確保と専門的な技術教育は、各事業セグメントにお任せしています。

浦勇さんからのメッセージ:私たちは学年が違いますからこうやってお会いするのは40年ぶりですね。東京のバスケ部の同窓会にもどうぞ参加して下さい。

 

広本治さん 88期

Q: 羽根のない気球型ドローンにはレーダーを提供しないのですか?

A: もしオーダーを頂ければ気球型に対応するレーダーを作る技術はありますが、受注量が少ないようでしたら採算が取れずお断りすると思います。飛行機型ヘリ型の方が、気球型に比べて数が多いですし、飛ぶスピードも速いのでレーダーのニーズが高く発注量も多いのです。

Q: 新規事業のテーマはどのぐらいの割合で残るものでしょうか?

A: 新規事業の成功確率はだいたい1%ぐらいかもしれません。新規事業には提案型と、トップダウン型があります。100個のテーマ(アイデア)があれば、10個のテーマが有力候補となり、2~3年ぐらい実践してみます。そのうち1つくらい成功すればいいかなと思います。

Q: M&Aに用意されるロングリストの中から実際にM&Aが行われる割合はどのくらいですか?

A: 私が持っているロングリスト(どんな会社を買いたいか?という極秘情報)には大体100社の名前が挙がっています。その中で現在進行中の案件は3件あります。M&Aはタイミングが大変重要で、チャンスはいつやって来るか分かりません。長い時間待つことを覚悟して、普段からリストを作って最適なタイミングを逃さないよう備えています。

Q: M&Aの後のPMIで苦労されたことは何でしょうか?

A: 買う前に行う査定活動がDD、買った後にどうするのか考えておくのがPMIで、私はM&A成功の命はPMIだと思っています。教科書的にはPMI完了までかける時間は100日間と言われますが、私はREDC買収のPMIに3年かけました。DDと並行してPMIの検討を開始し、買収成立後はじっくりと統合を進めました。海外の企業は資本理論が徹底していて、オーナーがかわれば仕組みが変わるのは当然と捉えられますのでもっと短時間で完了しますが、たいていの日本企業は変化を嫌いますので、長い時間をかけないと新しい仕組みが浸透しません。
DD:企業の事業価値やリスク等分析・評価する調査活動
PMI:M&A成立後の統合プロセス

Q: カーブアウト(譲渡)で苦労されたことは何でしょう?

A: 会社を手放す時、私たちは新しいオーナーのPMIには口出しできません。ただこちらの要求を伝えるのが精一杯です。日清紡ペーパープロダクツを大王製紙へ譲渡した時は、1~2年間にわたり毎月のように大王製紙さんの現場へ出かけて、統合が上手くいくようフォローし続けました。

Q: ご自身が社長になる自覚はいつ芽生えましたか?

A: 自覚したのは、M&Aに関わりながら各部署を転々としていた頃、社長就任の一年ぐらい前でしょうか。私は自分が社長に相応しいとは思っていませんでした。入社以来、私はずっと事業最前線から外れた間接的な仕事をしてきましたし、私が唯一責任者として立ち上げたバイオ事業は上手くいかず潰してしまいました。一方、社内には国内外の事業で優れたリーダーシップを発揮していた人材がそろっていました。社長交代の時期を迎えた時、会社の業績が良くありませんでしたから、経営の立て直しが得意なプロ社長を他所から招くことも選択肢の一つでした。しかし日清紡は色んな事業を内包した巨大な多様性企業でしたので、各事業に精通した人でなければ正確な経営判断はできないとされ、外部から新しい社長を招くことはありませんでした。そんな中、社内全体の事業内容を良く理解していた私が次期社長候補の1人に挙がりました。

 

岩田松雄さん 89期

Q: 社長に選ばれた理由は何だと思いますか?

A: 私自身が変わり者だったからだと思います。多くの社員が変化を嫌う中、私は変化する事から逃げないで仕事をしてきた変わり者でした。変化を恐れず仕事が出来たのは、成功すれば必ず何かメリットがありますし、もし失敗しても失うものは何も持っていないという感覚があったからです。私が社長に選ばれた当時は、会社が大きな変革時期を迎えていましたから、旗振り役に私のような人材が求められたのでしょう。もし会社が安定期に入っていたら別の人材が社長に選ばれていたと思います。
岩田さんからのメッセージ:社長をやっていると時間はあっという間に過ぎてしまいます。やりたい事をやって悔いのない仕事をして下さい。応援しています。

 

濱口謙司さん 89期

Q: 日清紡一筋に40年以上勤められてこられたのは、日清紡が好きだったからと思いますが、特にどこが好きだったのでしょうか?

A: 日清紡が本当に良い会社だと思えたから勤め続けてこられました。私が入社した時「まじめにやれ」というのがベースにあって「悪い事をして儲けろ」「困っている人がいても知らんふりして儲けろ」とは決して言われませんでした。私は「仕事をするのに悪い事をしなくてもすむ会社」という社風が好きです。40年以上勤めてきましたから辛いこともありましたし、他社からのお誘いもありましたが、転職しなかったのはただ面倒くさかったからです。

 

五十君 興さん 88期

Q: 私は日本無線の長野研究所(先端技術センター),川越事業所などの設計に関わらせていただきました。経営トップとしての視点で研究所という建築に期待すること、気を留めていることなどありましたら教えてください。

A: 日本無線の事業構造改革の一環として、三鷹の事業所を閉鎖して拠点を長野県に移す経営判断をしました。研究の本拠地を東京から地方に移転させると決めた時、社内のモチベーションが大きく下がりましたし抵抗もされました。そこで「長野の拠点はできるだけシンボリックな建物、日本無線の優れた技術の象徴になるような研究所を建てなさい」という指示を出すことになりました。予算に限りがありましたが、日建設計さんは私たちの期待を上回る素晴らしい建築物を考案して下さいました。ただの箱モノではない外観や、大きな吹き抜けのある内部構造は今でこそ珍しくありませんが、当時としては斬新なデザインで、社員のモチベーションを上げるのに大いに役立ちました。

日本無線先端技術センター | 研究・生産・物流施設 | Projects | NIKKEN SEKKEI LTD

 

西尾大次郎さん 66期

Q: 人材投資について教えてください。

A: 事業は人の力が要、経営をいくら頑張っても人の力以上の実力は出せませんので人材育成には相当お金をかけています。技術的な教育プログラムは各事業セグメントに任せていますが、意欲のある人には大学のMOTなど外部のスクールで学ぶ機会をたくさん設けています。学ぶことへのモチベーションが上がるような研修プログラムの仕組みを社内に積極的に構築しています。

Q: 本日のお話を伺って、日清紡はもう紡績だけの会社ではない事が良く分かりました。紡績会社のイメージが強い社名を変更するお考えはありますか?

A: 社名変更のタイミングは過去に何度もありました。例えば繊維事業からブレーキ事業が主流になった時、当社のブレーキ摩擦材は世界中に広く流通していましたから、商品に刻まれていたNISSHINBOの刻印を別の名前に変更すれば商売に支障が出るということで、取りやめになりました。エレクトロニクス事業が主流になった時も社名変更の話が出ましたが、新社名を周知させるスイッチイングコストを考えた時、そこまでお金をかけるメリットがなかったので、取りやめとなりました。将来は名前を変更するかもしれませんが、今のところそのような計画はありません。
REDCさんが日清紡の傘下に入り新日本無線と事業統合する時、統合新会社の経営陣に新しい社名を考えてもらう事にしました。半導体の会社ですから、繊維業のイメージが強い日清紡の名前は使わない方がいいですよ、と事前に念をおしておいたのに、彼らが考案した新社名は「日清紡マイクロデバイス」でした。なぜ日清紡の名前を付けたのか理由を尋ねると、日清紡という名前には業界内で絶大な信用力があること・信用力があれば対金融機関でも有利な担保に使える、ということでしたので私も納得して承認することにしました。

 

清徳則雄さん 79期

Q: 御社の営業利益率は3%ですが、この数字は低すぎませんか?

A: 利益率が低いのはおっしゃる通りで、原因は赤字事業を抱えているからです。これが無ければ8~10%まで利益率が上がります。現在、事業の組み換えを進めています。あと1~2年くらいで数字が改善するはずです。

Q: 多様性企業という事で、各セグメントの事業資金はどのように調達されていますか?(多様な事業セグメントをどのように団結させておられるのですか?)

A: 日清紡ホールディングスは経営資源をどこに投入するかを決める仕事を行っています。経営資源とはお金と人材(部長以上の管理職)です。ですからキャッシュマネージメントはホールディングスが行います。ホールディングスは銀行から一括してお金を借りて各事業に資金提供をしますし、お金が余っている事業からお金が足りない事業へと資金を融通する仕事をしています。経営マネージメントに関しましても同じように適材適所に人材を投入・融通しています。

Q: 社長の仕事は面白いですか?

A: 事業の中身がバランバランですから大変です。私が事業資金の裁量権を持っていますから、それぞれの事業の中身が分かっていなければ、設備投資や研究資金が正しく配分ができず、社長であっても社内から批判を浴びてしまいます。

 

杉之原三廣さん 73期

Q: 同じ時代、同じ紡績業であったカネボウさんや東レさんの盛衰と現状についてについてどう思われますか?

A: 他社様の経営についてコメントできる立場ではありませんが一言だけ。繊維産業が日本の基幹産業として栄えていた頃は大した企業努力なしにどんどん品物が売れる時代でした。日清紡も含めてそんな状態に業界全体が安住してしまい、経営の本質を忘れてしまっていたのでしょう。いざ時代が変わり始めても、大会社としてのおごりやプライドが邪魔となり、まともな経営が出来なかったことが、日本の繊維産業全体を貶めてしまいました。時代の変化について行けなかったのがかつての大鐘紡であり日清紡でした。事業転換もされましたが、結局、時代に適応できず衰退していきました。日清紡は、繊維以外の事業が育っていましたから生き残れました。東レさんは海外拠点を上手く使いながら、東レさんの強みである合成繊維の技術を追求され、時代に合った新しい機能性繊維(炭素繊維やヒートテック素材)の開発に成功されましたし、繊維だけでなく素材メーカーとして大きく発展されました。

 

(講演録作成 野田美佳 94期)

Ⅷ.資料 2023年1月-六稜講演会(3MB)