Ⅰ.日時 | 2021年4月17日(土)14時00分~15時30分 |
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Ⅱ.場所 | Zoomによるインターネット開催 |
Ⅲ.出席者数 | 99名 |
Ⅳ.講師 | 圀府寺司(こうでら・つかさ)さん@88期(大阪大学大学院文学研究科教授(西洋美術史))
1957年 大阪府生まれ。 広島大学総合科学部助教授を経て現職。 2004年 ワルシャワ、ユダヤ歴史研究所研究員。 著書:Vincent van Gogh; Christianity versus Nature, Amsterdam/Philadelphia 1990. 『ファン・ゴッホ 自然と宗教の闘争』(小学館 2009)『ユダヤ人と近代美術』(光文社新書 2016) 『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家』(角川ソフィア文庫 2019)など。編著書: 『ファン・ゴッホ神話』(TV Asahi 1992, 英語版The Mythology of Vincent van Gogh,Amsterdam / Philadelphia, TV Asahi/John Benjamins 1993) 編著:『ああ、誰がシャガールを理解したでしょうか?』(大阪大学出版会 2011)『ファン・ゴッホ 巡りゆく日本の夢』(青幻舎 2017 英語版:Van Gogh and Japan, Amsterdam 2018)など。 訳書: 『ファン・ゴッホの手紙I, II 』(新潮社 2020). ファン・ゴッホ展を1986年(大阪)、2002年(札幌・神戸)、2005年(東京・名古屋・大阪)、2017-18年(札幌・東京・名古屋・アムステルダム)に責任監修。 |
Ⅴ.演題 | 「ファン・ゴッホとその手紙 ―画才もない不適応者を世界的画家に育てた家族たちの遺産―」 |
Ⅵ.事前宣伝 | どれほど歴史的意義があろうと、ほとんどすべての私信は歴史には残りません。書き手も受け手も公表を望まず、自らの手で歴史の闇に葬るからです。ただ、ごく稀に、歴史の女神の手元が狂って残ってしまう私信があります。ファン・ゴッホの手紙がそのひとつです。ここでは『ファン・ゴッホの手紙I, II 』(新潮社 2020)を個人全訳する中であらためて感じたことをお伝えしようと思います。
「炎の人」、「天才」、「孤高の画家」、「狂人」… 過去百年余りの間、美術界やアート関連市場はファン・ゴッホという画家にこのようなイメーシを付与してきました。過去の伝記も、映像作品も、手紙の翻訳さえも「不遇の天才」「孤高の画家」といったイメージを補強するように生産されてきました。しかし、ファン・ゴッホには天賦の画才などありません。彼にあったのは克服しがたい社会的不適応と、人の役に立ちたいというの強靭な意志、そして、この不適応者を支え続けた家族たちでした。歴史の女神の手元を狂わせ、生き恥晒した膨大な私信を後世に残すことになったのは、家族たちの思いに他なりません。「孤高」などではなかった画家ファン・ゴッホの家族の肖像を描き出します。 |
Ⅶ.講演概要 |
1.はじめに・ファン・ゴッホの家族は父母と7人兄弟(妹)であるが、彼の人生において、父とすぐ下の弟テオ(Theo)及びその妻のヨー(Jo=Johanna)がキーパーソンとなる。
・訳書の「ファン・ゴッホの手紙Ⅰ、Ⅱ」は、翻訳に6年を要して、昨2020年に新潮社から刊行された。
2.手紙について
・「歴史の女神の気まぐれ(or手違い)」と謂われるように、偶然が重なって、全部で900通以上残されている。
・通常、私信(プライベートな書簡・手紙)は、自身の恥や他の人の悪口等も含んでおり、当事者(書き手と読み手)は絶対に残したくないものであるが、その当事者であるファン・ゴッホと弟テオとはほぼ同時期に(兄は37歳の時、弟は半年後にショックの余りの精神錯乱で)亡くなっており、そのまま全てが弟の妻ヨーの手に渡ったという偶然である。 ・また、テオは几帳面な性格で、ファン・ゴッホからの手紙をほぼ全て保管していた。 ・ヨーにすれば、自分がそれまで義兄に冷たくして来たという自責の念に駆られていたものと思われるが、ファン・ゴッホが亡くなって24年後の1914年に書簡全集が出版された。 ・またその際、ヨーの手に依って、オランダ(ユトレヒト郊外)にあったテオの墓は、パリ郊外(オーヴェール・シュル・オワーズ)にあるファン・ゴッホの墓の隣に移葬されている。
3.「ファン・ゴッホの手紙」の出版について(1) ファン・ゴッホ美術館からの出版
・2009年に、手紙900通以上を掲載し、改定版となる全集、全6巻が出版された。
・3人のプロフェッショナルを15年間専任で雇い続け、手紙のオリジナルから書き起こしたものが正しいかどうかまで全てチェックしている。 ・1914年版は、未だ同時代(関係者が生存)であったため、人を傷つける等都合の悪い部分についてはかなりの部分を削除しているが、ここではそれを復活させている。 ・美術作品・文学作品・新聞雑誌記事・版画・人物等ありとあらゆるものを見つけ出して掲載している。(芸術作品については、図版も掲載) ・これにより、ファン・ゴッホ美術館は、ファン・ゴッホ研究の世界的拠点の地位を確立した。 ・同時にWEB版(http:/vangoghleteers.org/vg/)も無料、制限ナシで公開している。 ・WEB版を無料で提供すると本自体が売れなくなるのではとの憂慮を他所に、本は売り切れ、また、それを基に2次制作が進み、利益を産み、名声が獲得される。 ・このことで、情報の開示がいかに大切かが分かる。 ・特に、膨大なデータの検索が可能であるのは極めて有益である。 ・永遠に改訂が可能でWEB版自体は成長を続け、進化する。 ・また、手紙の内容は、私的な中に歴史的に重要な出来事が盛り込まれていた。 ・手紙の原語はオランダ語・フランス語がほぼ半分ずつで、英語が少し。全集版は英語、フランス語、オランダ語版のほか中国語でも出版されている。 ・その後、内容を1/3とした、1000頁の縮刷版「選集」が出版され、アラビア語・ドイツ語・スペイン語版、それ以外にフィンランドやトルコなどでも翻訳版が出されている。 (2)日本語版の出版
・上記の「選集」の日本語版について新潮社から、当初は「監修」ということで依頼があったが、その後結局、全てを「翻訳」することとなり、不要不急な仕事はほぼキャンセルし、6年がかりで出版と相成った。
・「芸術新潮」で原田マハさんとの対談が掲載されたが、その際の10頁分のPDFがあるので、ご希望の方には、お申し出頂けば、送ることも可能。 (3) 翻訳を通じての新たな発見
・手紙には父親や上司の悪口が多く、若い頃にこの手紙を読んでいた時の印象と、50歳代後半で読んだ際の印象がまるで違う。
・父親は常に息子に愛情深く接し、顔に泥を塗られながらも辛抱強く世話をしている。 ・上司のテルスチーフという人も、全く正しい常識人で尊敬される上司のイメージ。
4.ファン・ゴッホについて(1)ファン・ゴッホの才能
・狂気の天才と言われているが、決して画才に恵まれていたわけではない。
・それがだんだん化けてくる。パリ 時代がひとつの転機だが、化けることができた根底にあったのは「なんとか人の役に立ちたい」という本人の強烈な意志。 (2)映画や演劇に見るファン・ゴッホ
・1956年アメリカのMGMで、カーク・ダグラスとアンソニー・クインの共演で「災の人ゴッホ(原題:Last for Life)」の映画が公開された。
・ファン・ゴッホの映画が100本近くあるのに対して、他の同じような才能や名声を持つ他の画家がこれほど取り上げられていないのは、手紙が残っていることに起因している。 ・つまり、2次創作が可能で、リソースがふんだんにあり、殉教者伝や聖人伝などに見られる物語パターンに放り込みやすいエピソードが豊富だからである。 ・日本の演劇では、民芸の「炎の人」で、主演は滝沢修、この人一人である。 (3)ファン・ゴッホの家族同士の手紙から分かったこと
・出版されている900通以外にも、家族同士の手紙が別に残されていて、兄や元上司の悪口などもあって、第三者同士のやりとりを読むとイメージが変わる。
・最も多いのが、父とテオのやりとり。 (4)家系図・父母と死産だった兄を含めて7人兄弟(妹)。 ・父も祖父も牧師で、父の兄弟(伯父)は画商が2人と軍人が2人。 ・弟テオの子孫が生き延びていて、孫が4人、ひ孫が私と同世代。
5.家族から見て本当に困った息子/兄としてのファン・ゴッホ年譜1852.3.30 フィンセント・ファン・ゴッホ(兄:死産)1853.3.30 フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(後の画家)誕生
・小学校に馴染めず一時自宅で学習 通学は1年未満 当校拒否
・1864~66 寄宿学校に入れる ・1868 中等学校は中退1年半 ・1869 フィンセント伯父の経営するグーピル画廊ハーグ支店に就職<コネ就職> ・1873 ロンドン支店勤務:順調かと思いきや下宿の娘にふられてから勤務態度悪化、画廊を解雇される<両親の心労の始まり> ・イギリスの寄宿学校で教員補助、教会で説教させてもらうなど模索 ・ドルトレヒトの書店勤務<ほぼコネ> ・牧師になりたいと言い始める<父「牧師になるには8年はかかる・・・・・・」> 1877 24歳 アムステルダムのストリッケル伯父の世話で神学部の受験勉強開始
・ストリッケル伯父にもヤン伯父さんの家にも住まわせてもらって散々世話になる<勿論、父の世話で>
・受験勉強難航(数学?)日曜学校で教えたりし始める。<両親の心配募る> 1878 大学受験断念
・ベルギーで伝道師になる訓練開始 ボリナージュ炭鉱地帯で試用期間<父の推薦状 手紙多数 父ベルギー訪問>
・結局寄行のため不採用 <父詫び状ほか> ・この頃、父はフィンセントをヘールの精神病院に入れようとしている。 ≪この辺りの何年かの手紙は残っていない。ヨーがカットしたと思われる。≫ 1880 27歳
・万策尽きて画家になる決心 テオの後押し この頃からフィンセントの生活費は弟と両親で折半
・エッテンの両親の家に戻る ・両親 フィンセントのためにアトリエ整備 家具揃える <また金がかかる> ・エッテンの家で従姉ケー(子持ちの未亡人 ストリッケル牧師の娘)に片想い ・「いいえ、だめです、絶対に」と断られるも実家に押し掛けてストーカー行為 ・さんざん世話になった伯父の娘にストーカー行為<父、困惑の極み。> 1882 29歳
・家を出てハーグに住み始める。アトリエを持ち、画家の従兄マウフェに教わる。
・マウフェが親切(きっと父が手紙を書いて「よろしく」と・・・) ・順調かと思いきや子持ちで妊婦の街娼シーンと同棲を始め<親族一同大顰蹙> 1883 30歳・ようやくシーンと別れてくれる。 1884 31歳 ニューネンの両親宅に戻る
・家の雰囲気は最悪ながら絵の仕事には熱中
・母「それでもハーグにいた時よりは安心・・・・・」 ・近隣のマルホと恋愛関係に→マルホ服毒自殺未遂<家族また顔に泥を塗られる> 1885 父、脳卒中で急逝 享年63歳1886 パリのテオのもとへ<テオ同居の苦悩>1888 アルルへ移住 ファン・ゴッホ家にとって最も幸福な10カ月1888.12.23 耳切り事件<母・家族の心労再開>・ほぼ同時期にテオとヨーが婚約 1889 フィンセント サン=レミの精神病院に入院<家族の悲しみと支援>・ぶり返す発作の最中、テオとヨーの子フィンセント(甥)が誕生 1890 サン=レミからオーヴェール・シュル・オワーズへ1890.7.6 パリのテオ宅で口論1890.7.29 ファン・ゴッホ死去 自殺?他殺?事故?<テオ・母の悲しみ>1891・・・ テオ死去
・ヨー:オランダに転居 ≪今の価値で数千億円相当の絵画と共に引越し・当時はガラクタ同然?≫
24年後にファン・ゴッホ書簡全集を出版
6.家族同士の手紙(1)父
・フィンセントの中には良いところが沢山ある。だから仕事を変える方がいいのかもしれません。
・私達はうまくいってくれればと願っているが、心配がないわけではない。彼のなかにはエクセントリックな面がたくさんあるが、いいところも沢山ある。主を信じよう。どんな心配事も杞憂になりますように。
(一部引用省略)
・フィンセントについての心労がまた私達に、本当に重くのしかかってきた。また爆弾が破裂しそうな予感がする。 ・私達は彼が名誉あるゴールに辿り着けるようできる限りのことをやったのにまるで彼はわざわざ困難な道を選ぼうとしているかのようだ。 ・また私達は厳しい試練に晒され、本当に我慢の限界だ。 (2)母 アンナ
・ああ、テオ。私達はフィンセントのことでとても悲しんでいます。・・・ベルギーでは沢山仕事があって、働ける人は少なく、あそこなら意志と能力ある人にはきっと試験なしでも仕事が見つかるでしょう。あそこならなにか光明が見出せるかも知れません。でも私はいつもとても心配しています。フィンセントはどこかに行こうとしたり、何かをしようとしたりすると、その風変りさや。驚くような考えや人生観で、それを壊してしまうのではないかと
・10日ほど前に彼に手紙を書きました。今はタバコ・ポーチを作っていて、それを缶入りチョコレートとウィルからの本と一緒に水曜か木曜に送りたいと思っています。3月30日がフィンセントにとってあまり不幸な日になりませんように。かわいそうな子。いつかいい日が来ればいいけど。 (3)妹 アンナ
・彼は人々について幻想を持っていて、彼らをよく知る前に決めつけてしまうのだと思います。だから彼らが実際にどんな人たちなのかを知り、彼が前もって思い描いていたイメージと合わないことが分かると、がっかりして枯れた花みたいに捨ててしまうのです。大切に手入れしてやれば、まだゴミとは言えない枯れた花の中にもいいものあるのではないかと見てみたりしないのです。
・フィンセントはこれまでにも増して木のライオンのようで準備にいらついています。お父さんとお母さんのためにもベルギーの件はうまく行って欲しいと切望しますが、彼の極端な頑固さや人への理解の欠如は新しい環境でもあまりいい方にははたらかないのではないかと危惧しています。 (4)妹 エリザベート(リース)
・私にはフィンセントを良く知る機会が全くなかったけれど、あの休暇のあの時、彼がどんな人か、このような兄をもつことにどのような意味があるのかが分かりました。テオ、私は彼に逆らうのではなく、彼のことを誇りに思わなければいけないのだと思います。彼があの時私達にどのように話したかを、お父さんが一度でいいから聞くことができたら、彼の考えの純粋さを見ることができたら、彼についてどんなに間違った考え方をすることでしょう。
(一部引用省略)
(5)一番下の妹 ウィル
・この8年間というものフィンセントは沢山の人に迷惑をかけて来ました。でもその外見のゆえに皆は彼の中にある沢山のいいところを忘れがちです。
・テオによれば彼は間違いなく評価される人物になるとのこと。 (6)ヨーの兄
・彼には社会的な礼儀作法というものが全くありません。誰とでも喧嘩をするし。だからテオは彼ゆえに大きな我慢を強いられています。
・テオはひどくやつれて見える。可哀想にたくさんの心配事があり、その上さらに彼の兄が彼の生活を困難にしている。テオには何のとがもないのに、この兄はあらゆることで責めたててくる。 ・フィンセントはこれまで以上に健康そうに見えるし、すこし太った。 (7)弟 テオ・ファン・ゴッホ
・君は僕にフィンセントのことを尋ねている。彼は世の中を身近に見てそこから身を引いた人のひとりです。今は彼に天才があるかどうか見守らないといけないでしょう。僕はあると思うし、ボンゲルら何人かの人もそう思っています。彼の作品が良いものになれば、彼は偉大な人間になるでしょう。成功ということについては、もしかするとヘイエルダールみたいに、限られた人に評価され大衆には理解されないというようになるかも知れません。1885リース宛
(一部引用省略)
・変わった奴だけれど、なんと素晴らしい頭がその上にのっかっていることだろう。うらやましいことです。 リース宛 <テオから母宛>
・親愛なるお母さん、どれほど悲しいかを書くことも、紙の上に悲しみをぶちまけて慰めを見出すことも出来ません。すぐにそちらに行ってよいでしょうか。まだここでしないといけないことが色々ありますが、出来れば日曜の朝にはここを立って夜にはお母さんのところにいたく思います。この苦痛は、ずっと長き間僕にのしかかることになるでしょうし、一生、忘れることはないでしょう。ただひとついえることは、兄さんは自ら望んでいた『やすらぎ』を手に入れたということです。・・・・。フィンセントは言いました。「こんな風に逝きたかった」。彼の望みはかなえられました。・・・・ああ、お母さん、とても、そばにいたく思います。ああ、お母さん、本当に僕の、僕の兄さんだったのです。
(8)ヨー
・私は病人を想像していましたが、彼はがっしりした肩幅の広い男の人でした。顔色も良く微笑みを浮かべ、強い意志のようなものを感じました。「まったく健康そのもの。テオよりよほど強そうに見える。」というのが最初の印象でした。
<7月6日 テオ宅での口論> ・フィンセントはどうしたのでしょう。彼がうちに来た時私達は少し言いすぎたでしょうか。もう二度とあなたと口喧嘩しないよう自分にしっかり言い聞かせ、あなたの希望通りにすることにします。 <フィンセントの死>
・彼が家に来た時、もう少し優しくしてあげていたら!
・最後に会った時、自制が足りなかったのを本当に申し訳なく思いました。
7.なぜ世界的な著名画家になれたか
・ヨーは20歳代で未亡人になったが、莫大な遺産(当時はガラクタ同然)を、自責の念にかられて、ずっと管理し続けた。
・最初の頃は、リビングに飾るなど普通に家においていたが、次第に絵画の評価が上がってきて、ヨーは、絵画を美術館に公開する為に、売りに出しており、例えば「ひまわり」等も、ロンドン・ナショナルギャラリーに売却している。 ・次第に高額のあまり遺産相続もままならない状況下、息子のフィンセントは、フィンセント・ファン・ゴッホ財団を立上げ、ファン・ゴッホ美術館に作品を預ける形で、一生をかけて遺産を守り続けた。 ・家族や子孫に恵まれたかそうでないかによって、歴史的評価の重要性が変わってくる。 ・先ず、父がファン・ゴッホには良いところがあるからと言い続けたことに端を発する。それがなければ、彼は20代で終っている。 ・テオのひ孫にウィレムとヨジンらがいるが、この人たちが私の同世代である。 ・ウィレムやヨジンもファン・ゴッホ財団の理事長を務めていたが、代々、直系の子孫が理事長職に就くことになっている。 ・子孫の絆も強く、倫理感も強く、遺産を守り続けて来ており、これから後も、次の世代が育っている。 ・一族は裕福で楽な生活と見られているが、苦労も多かった。例えば、ヨジンの伯父は第二次世界大戦中に、レジスタンスでナチスに処刑されているし、ヨジンの兄は、映画監督であったが、2004年に映画のある場面がイスラム原理主義者の逆鱗に触れ、惨殺されている。 ・初期には画才もそれほどでもなく、社会適応性のない問題児が、画家として名声を得たのは、家族に助けられて、また、子孫に恵まれたことが最大の要因と思われる。
質疑応答1.杉之原三廣(73期)Q1:ゴッホには画才がないということですが、その基準はなんですか? →A1:初期の作品は人物のプロポーションからして滅茶苦茶で、とても上手いとは言えず、画才としては低かった。 Q2:それでは、上の上にはどういう人がいますか? →A2:ピカソ・モネ・ダリ等 ピカソにしても初期の頃は写実的表現も素晴らしく、子供のころから上手かった。 Q3:では、ゴッホの絵がみんなの心を打つのはどういうことでしょうか? →A3:初期が下手でも、ある時から、アカデミズムではなくアヴァンギャルドとして上手くなる。特にパリでテオと同居した際に、アヴァンギャルド印象派のゴーギャン達と交流することが出来たのが大きい。テオが画商なので、画家達がつきあってくれて、当時の前衛的グループに接することが出来た。パリに出なければ埋もれていた。 もう一つは、ファン・ゴッホは努力をする人で、絵の制作に熱中し、寝る時以外は手紙を読んでいるか、小説を読んでいるか、デッサンの手直しをしていた。 テオに借りている金を返すために絵の制作をしているが、売れる絵を描くために妥協はしたくなかった。この妥協をしないことが、前衛画家の絶対条件であった。
2.清徳則雄(79期):コメントC1:素晴らしい講演でした。若い頃エキセントリックであった身として感動しました。 →A1:NHKの番組「プロフェッショナル」で、エバンゲリオンの作者の庵野秀明を特集していましたが、ファン・ゴッホは彼に似たところがあると感じた。ただ、まだ庵野さんは社会に適応できているほうだと・・・
3.北岡克子(85期)Q1:ゴッホの周囲の人々の奉仕する心とか自制心は信仰からくるものでしょうか? →A1:牧師なので、子供の頃から教会へ行ってキリスト教の倫理観は身に着けている。エキセントリックではあるが非常に真面目過ぎて歯車が狂ったものの、いい加減に悪いことをするのではないというところが、倫理観に裏打ちされている。 4.竹田誠(98期)Q1:ゴッホの病名はなんだったでしょうか? →A1:これまで国際シンポジウム等も開催されて議論されたが、結局特定できていない。 一方、テオは梅毒だったことが判明している。
5.広本治(88期)Q1:ヨーに興味があるのですが、普仏戦争が終わってパリ万博の頃、オランダの状況はどうだったでしょうか?彼女の生活や財産を守ることに影響したでしょうか? →A1:直接はあまり関係がない。その頃、フランスが負けてロレーヌ地方をドイツに占領された時期に、想像上で、この「地上」に対して上に伸びる「エッフェル塔」や「宇宙旅行」という小説が出たことなどとの関連で、ゴッホの絵の「星月夜」がイデオロギー的に解釈されたこともあるが、ヨーにとっては、政治的につながりはなく、田舎で普通に暮らしていたのであまり影響は受けていない。
6.納多勝(88期)Q1:手紙はどのようなペンや筆で書かれていたのでしょうか? →A1:スケッチも含めて、ペンで書かれ、元々は深い青、紫だったが、時が立つにつれて退色して、茶色や褐色となっている。デッサンなども同じ。
7.宮﨑憲司(73期)Q1:ゴッホの才能で上の下或いは中の上とされていますが、根拠はありますか? →A1:あくまで、直感的な個人的見解。数値的に根拠づけられるようなものではありません。 8.市橋マリ(73期)Q1:死因は自殺・他殺・事故のどれと考えられておられますか? →A1:分かっていない。他殺としても状況証拠のみで、決定的な証拠はない。 ファン・ゴッホ美術館は歴史的に自殺扱いとしている。強いて言えば自殺説。
9.簑島紘一(75期)Q1:北野の先輩の佐伯祐三画伯は、パリ滞在中に、ゴッホの影響を受けていますか? →A1:当時、ゴッホの亡くなったオーヴェール・シュル・オワーズに晩年の作品が残されていて 佐伯画伯もそこに行っており、また、日本の画家の留学生達も通っていた。 そこの芳名録に名前が残っている。直接、間接的に影響は受けたと思われる。 |
Ⅷ.資料 | なし |