【212回】8月「改めて建築家の役割を考える」 —50年間の設計活動を通して—

Ⅰ.日時 2020年8月15日(土)14時00分~15時00分
Ⅱ.場所 Zoomによるオンライン開催
Ⅲ.出席者数 43名(~69期:6名 70~79期:15名 80~89期:12名 90~99期:8名 100期~:2名)
Ⅳ.講師 今井俊介さん@82期(建築家 株式会社STUDIO i 代表取締役)
1952年 1月16日 大阪府吹田市生まれ。
1964年(昭和39年) 大阪市立十三小学校卒業
1967年(昭和42年) 大阪市立十三中学校卒業
1970年(昭和45年) 大阪府立北野高等学校卒業
1976年(昭和51年) 京都大学工学部建築学科卒業
1978年(昭和53年) 京都大学大学院工学研究科修士課程修了(建築学)(増田友也研究室)
1978年(昭和53年) 株式会社レーモンド設計事務所入所(〜1981年)
1981年(昭和53年) アカデメイア建築研究所一級建築士事務所設立/代表
1993年(平成3年) 株式会社アカデメイア一級建築士事務所設立 代表取締役(〜2018年)
1998年(平成8年) NPO法人日本民家再生リサイクル協会設立 副理事長(〜2001年)
2018年(平成31年) 株式会社スタジオアイ一級建築士事務所設立 代表取締役
Ⅴ.演題 「改めて建築家の役割を考える」-50年間の設計活動を通してー
Ⅵ.事前宣伝 建築は、すべての人にとって、もっとも身近で、自らを取り巻く環境そのものであるにもかかわらず、それを専攻したほんの一部の人たちを除いて、生涯学ぶことがほとんどない。これは大変不思議なことだ。私の多くのクライアントも例外ではない。私が実際に設計に携わり始めて以来、いかにしてクライアントとの共同作業を正しく進めることができるのかが大きなテーマとなった。建築の設計に自分のすべてを捧げることを決め、その後に歩んだ50年間を振り返り、改めて、建築家の役割について、実例を踏まえて私の考え方を楽しくお伝えしたい。

 

 

☆その他の情報 (これは追加の情報です)

 

●6歳で接した山下清の絵(小田原城のペン画の絵はがき6枚セット)が始まり。その後同じ絵を何度も何度も模写していた。

●小中学校での図画工作の自由テーマで選んだものはほとんど建築物や建物のある風景であった。金閣寺、薬師寺東塔、東本願寺・・。

●大学院で増田友也先生から頂いた大いなる薫陶。学んだのはほとんどが建築の設計に必要な哲学の世界。胃が痛くなるほど経験。ハイデッガー、道元・・。

●独立をすると、あらゆる種類の建築の設計が舞い込む。最初の仕事のクライアントが「人間国宝」の方の能楽堂。その後、学校、ホテル、旅館、教会・・。

●古民家再生にかかわるようになったこの24年。現地再生、移築再生、古材活用などのあらゆるケース。日本の建築美の創造に改めて深く関わることになった歓び。

Ⅶ.講演概要 ■講師紹介(同期の植村和文:講演録記録者)*人物像について

・高校2年生(1968年メキシコ五輪の年)の1年間ご一緒したが、「物事を深く追求し極めてゆく、孤高にして芸術家的」といった印象が強かった。
・この”人となり(性格・姿勢)” が、将に、彼のその後の人生を形成し、今の仕事に繋がっていると思われる。

*建築設計業界について

・紹介者も三菱地所㈱で建築設計に携わってきて、この業界を熟知している。前回、㈱日建設計の88期五十君氏の講演で、建築家が続くが、その差異を明確にするためにも、ここで、当業界の状況を簡単に俯瞰する。
・設計事務所のタイプは、5つあると考えられる。

  • 組織事務所:日建設計・NTTファシリティーズ・三菱地所設計・日本設計等、各職能(意匠・構造・電気機械設備・工務積算・監理・営業他)を揃え総合力に優れる。
  • アトリエ事務所:隈研吾・安藤忠雄・竹山聖(85期)等、強力な個性でデザインに特化.
  • ゼネコン設計部:施工メインの建設会社の設計部門で技術力に優れるが施工優先の嫌いアリ。
  • 一般の設計事務所:数名~数十名程度で各職能を揃える事務所と職能に特化した事務所がある
  • 個人事務所:今井氏のように概ね一人で運営(他職能事務所と連携して仕事を進める)

*個人事務所は、全ての職能を把握していなければならず、仕事を極め信頼を得て、その作品の出来栄えやプロセスの中から、人脈を広げ、更なる仕事を獲得してゆく等、特に営業(仕事を取ること)については、かなりの刻苦勉励・艱難辛苦・切磋琢磨が必要。

■講演内容

0.プロローグ ~39年間(1981年~2020年)の仕事年表~

・1981~1987年<草創期>:仕事はまだ少ない
・1988~1999年<バブルの崩壊→古民家再生の始まり>
・2000~2011年<古民家再生を含めた様々な仕事の展開>
・2012~2020年<本来の日本建築を求めて>

1.建築を目指して ~建築設計が自らの仕事となるまで~

・これがすべてのスタート:6歳の頃に初めて目にした山下画伯の絵葉書
・小中学校の美術の自由課題のテーマ:いつも建築→子供心に建築を目指していたか?
(金閣寺・薬師寺東塔・法隆寺夢殿・東大寺南大門・東本願寺・・等々)

*北野高校時代

・理系や英語はまあまあ得意、国語と倫社は強烈な苦手意識.
・国語の能力は半ば諦め→後に予備校で素晴らしい先生と出会って道が拓ける.
・倫社は足立(時司)先生→授業は興味が薄く、哲学が特に辛く、眠気との闘い.
・しかし、建築の道に進むのに、後にこれらがどれほど重要か思い知らされる.
・大学進学は、迷わず建築学科を選択.

*大学学部時代

・京大(建築学科)では、東大等と違って、1回生から少しずつ建築の授業がある.
・土曜午後に講義「建築概論」があって「建築とはデザイン以上に哲学が重要」という内容に高校時代のトラウマに鑑み、少し不安になった記憶がある。
・しかしながら、教養(1~2年)時代の図学やデッサン、専門(3~4年)に入ってからの科目や設計演習には何の不安もなく、寧ろ、自信を得ていた。
・設計演習は特に好きで、一時は没頭して打ち込んでいた。
・卒業設計の作品を示す。
・その講評で、後に指導教官となる増田友也教授に酷評された。
・設計の内容ではなく、「今あなたがやることはこれではない」といったことだったと思うが、そ時は激高・逆上していて、余り記憶にない。
・しかしこれが、研究室(大学院)に進んでからの姿勢を変える大きな契機になった。

*大学院修士時代(増田研究室)

・大学院は増田友也研究室に進学.
・カリキュラムの大きな柱は、「ゼミ」と研究室での「実施設計」.
・アトリエ(増田研究室)での泊まり込み(徹夜で設計作業)が常態化.
・その中で、実施設計(インドのホテル・石川県の病院等)に関われたことは大変な経験.
・ゼミが、私にとって克服しなければならない巨大な壁に.
・ゼミで増田教授が用いたのは以下の書籍
・ハイデッガー著「芸術作品のはじまり」
・ハイデッガー著「存在と時間(SEIN UND ZEIT)」
・道元著「正法眼蔵」
・中村貴志助手(当時)の翻訳チームに加わって、ハイデッガーの「芸術と空間(Die Kunst Der Raum)」の翻訳も担当

*レーモンド事務所時代

・東京に移り、レーモンド*1事務所に入所(*1:F.L.ライトの弟子)
・既に、アントニン・レーモンドは1年前に他界、生前のその10年前とは事務所の様子が変わっていた。
・当時65人の中規模事務所であったが、レーモンドが抜けて、それまでの「アトリエ事務所」から一般の設計事務所へと変貌.
・ここでは、2年間の間に、企画設計(47件)から、実施案件の設計から竣工まで(4件)の実務経験をたっぷりと経験。

 

2.建築を目指して(創業から今日まで) ~ポイントとなった12の仕事を含めて~

*初めての仕事

・電話の前で新しい仕事を待つも、東京に来て3年で、住所録にも100人足らずの知り合いしかおらず、かかって来るはずもない。
・急に「永久に仕事が来ないのでは・・・」という不安に駆られる.
・しかし約1ヵ月が経ち、1本の電話が・・・
・「今井さん、能楽堂を設計しますか?」レーモンド事務所時代の後輩からであった。
・能楽堂の設計? 木造のあの4本柱の・・・?
・という感じだったが、取り敢えず会ってみることにした。
・クライアントであるお能の団体、社団法人銕仙会(観世榮夫理事長)との間には既に企画会社が入っており、それまでに何人もの建築家が関わり、辞めていったという、いかにも大変そうな話であったが、こちらとしてはやるしかないので、受けることとなった。
・それが「銕仙会能楽研修所」である
・既存舞台を解体修理し、新しい建物(劇場)を造り舞台をそこに納めるということであった。

*この後「銕仙会能楽研修所」から始まった多くの仕事の中の、転機となった12の案件を続けてご紹介する。

・これはとりもなおさず、私と私の建築設計の歴史の流れそのものとなる。

★ポイントとなった12の仕事:紹介

1.1983年 銕仙会能楽研修所<能楽堂>(南青山)
2.1988年 シャローム<別荘>(小渕沢)
3.1989年 山村女子大学総合体育館(鳩山町)
4.1993年 北郷フェニックスリゾート<ホテル>(北郷町)
5.1995年 オリンピック候補選手の家(東戸塚)
6.2001年 谷中の家(谷中)
7.2003年 とん七<トンカツレストラン>(鶴岡市)
8.2004年 つくばの家(つくば市)
9.2005年 花の雲<ホテル別邸>(伊豆高原)
10.2006年 坊ちゃん劇場<演劇専用劇場>(東温市)
11.2009年 くらの坊<和食レストラン>(河津町)
12.2018年 T医院<医院+共同住宅>(中野坂上)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※記録者註:

<夫々の建物の外観・内観写真を見ながら解説>

・クライアント(施主)の懐に飛び込み、クライアントの立場に立って、様々な提案をし、好意を持って受け入れられるといった、謂わば、クライアントとの“共同作業”で建築作品を創り上げてきた様相が窺える。
・そこには、建築の根源の在り方を問い、それを基に創り上げた彼の人生観を表現した、即ち学生時代から培ってきた「哲学」を実践している姿勢が表徴されている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

3.古民家再生に関わる(古民家再生事業) ~マスコミで多く取り上げられるように~

・1996年頃、知人で田舎暮らしの不動産情報を扱っている人から、「今井さんは建築家なんだからどんどん解体されてゆく古民家の問題をなんとかしろ」という話があり、
・取り敢えず、山梨県の牧丘というところの古民家の見学会に参加
・当初は、古民家のことがよく分からず、問題をどう捉えて良いかすら分からないというのが本音であった。
・彼は仕事に繋がることも念頭にあったようだが、当面NPO組織で活動しようということになり、「NPO法人日本民家再生リサイクル協会」を設立.
・彼が理事長、私ともう一人の建築家が副理事長に.
・先ずは、文化的な活動を大きな柱にしようと、観世榮夫さんにお願いして会長に就任頂いた。
・その後3年ほどの間に、シンポジウムや見学会などの催しものを開催.
・会員はすぐに1000人に達した。
・その内、事業(古民家再生)化の実現も視野に入るようになると、全国から約200社が集まり、私がそのまとめ役となった。
・イギリスキュウ―ガーデンへの古民家の移築、URからの古民家による街づくりの依頼などが入る(いずれも実現)
・URの龍ヶ崎ニュータウンでの古民家再生のプロジェクトで実現したのが次の「坂本邸」.

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『古民家再生とは』

・現地再生・移築再生・古材利用の3つがある。
・日本中に「古民家」は30万~40万棟存在する。
・「古民家」の定義は、はっきりしない。現在では、戦前に建ったものをそう呼ぶ場合が多い。
・私は、昭和4年(1929年:世界大恐慌の時)が一つの分かれ目であると考えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*マスコミで取り上げられた事例を動画で紹介

・「NHKクローズアップ現代」『甦る古民家』2003年放映版から
・「渡辺篤史の建物探訪」から:茨城県龍ヶ崎市「坂本邸」
~URのプロジェクト「古民家村」の一つとして

4.クライアントと建築家 ~建築はクライアントと建築家のコラボレーション~

<ほぼすべてはクライアントさんの口コミから>

*「クライアントネットワーク(1981~2020年」を描いてみた。

・多くは最初の仕事「銕仙会能楽研修所」が発端となって拡大している。
・例えば、観世家の方々や企画関係の方々或いは設備の方々から色んな方を紹介して頂いて延々とその関係が伸びて仕事に繋がっている。
・この関係で全体の半分くらいあるかも知れない。
・別の処では、例えば、建築専門雑誌やTVを見てご依頼頂くケースも多々あり、それらが口コミで更に拡がってゆくこともある。
・このような「人脈」をずっと大事にしてきて、現在があると思っている。

――――質疑・コメント等:割愛――――――

Ⅷ.資料 200815_今井氏講演-記録用.pdf(14.1MB)