第47回 「歌は世につれ、世は歌につれ」  八木啓代さん@92期

reporter:峯 和男(65期)

    日時: 2006年11月15日(水)11時30分~14時
    場所: 銀座ライオン7丁目店6階
    出席者: 54名(内65会会員:江原、大隅、正林、山根、峯)
    講師: 音楽家・作家 八木啓代(92期)
    演題: 「歌は世につれ、世は歌につれ」
    講師紹介: 高校時代は合気道部に所属、生徒会活動やアマチュアバンドの演奏活動も行なう。京都外国語大学を経て、政府交換留学生としてメキシコに留学。このとき勧め られてオペラを学んだのがきっかけで歌手への道を歩みはじめるが、1年後ポピュラーに転向。ソロ歌手としてメキシコ、キューバ、南米などで活躍。現地で CDもリリースしている。心を癒す美しい声と深い表現力で「絹の声」と異名をとり、多くの著名作曲家等から曲を献じられるまでになる。スペイン語、日本語 のバイリンガル。仏語、英語、カタルニア語でも歌う。1994年より、ラテンジャズ・バンドHAVATAMPAのリードボーカルをつとめる。また、 1990年以後は日本で作家・エッセイストとしても注目され、「禁じられた歌」「MARI」(国際サスペンス小説)など多数の著作を発表済。
    講演内容:
    (要点のみ)
    (1)私は特別の専門分野があるわけでもないので、何をお話しようか迷ったが、大衆音楽(ポピュラー・ミュージック)のことであれば少しは専門分野と言えるかもしれないので、19世紀から20世紀にかけての歴史についてお話したいと思う。

    (2)今で言う大衆音楽の元祖と言われているものは18世紀キューバで起こった混血音楽である。ここで“揺れるリズム”が生まれた。

    (3)アメリカ新大陸へのアフリカ黒人奴隷の移入によりクラシック音楽と黒人の音楽とが互いに影響しあった。たとえば、黒人女性の奴隷が子守女となり、黒人の子守唄を歌って聞かせている間に白人の子供が黒人のリズムを身に付け始めた。

    (4)18世紀のキューバ音楽は「ダンサ」という名前が付けられた。キューバはスペインの海外圏であり感覚的な距離は近かったので、キューバから欧州の大学への留学は頻繁に行なわれていた。

    (5)この「ダンサ」は、ヨーロッパでは「ハバネラ(ハバナ風)」という名前でキューバの大衆歌謡(民謡)としても、ヨーロッパにも定着。このリズム感は、ヨーロッパでは、後にヨハンシュトラウスのウィンナワルツなどに結実した。

    (6)仏領ルイジアナではキューバの音楽にフランスのニュアンスが加わり「ラグタイム」が生まれた。1861年から南北戦争が始まりニューオリンズはこの 戦争に巻き込まれた。戦争と音楽とは大いに関係がある。戦意高揚のため軍楽隊の音楽が発達する。それらの軍歌は「元気良く、明るく、覚えやすい」のが特 徴。南軍の敗北により南部の人は生活に困窮、その結果かなりの楽器が売りに出され、それを二束三文で買ったのが解放された黒人であった。

    (7)元々アフリカでは、葬式の際悪霊を追い払うため賑やかな音楽を演奏する慣わしがあった。この音楽がアメリカ南部の黒人の葬列の音楽となり、さらに、 ニューオリンズジャズ(デキシーランドジャズに同じ)のルーツとなった。これに伴いビリー・ホリデイなどのジャズボーカルが発生、進歩的な白人も黒人の音 楽を聞くようになる。この音楽が次第に洗練され、ダンスパーティで踊られるフォックストロットなどにも進化した。一方で、ジャズは、独自の進化をとげてゆ く。
    (注:会場に於いて、ジャズの名曲『All of Me』を、1920年代のディキシーランド・スタイル、30年代のスウィング・スタイル、50年代以後のビバップ・スタイルで聴き比べる)

    (8)1877年に注目すべきことが起きた。エジソンの円筒型蓄音機発明である。その後1887年にはエミール・ベルリーナという人がこれを改良して、円 盤式のグラモフォン(78回転式SP盤)を発明、家具式蓄音機「ビクトローラ」を発売、1920年代にかけて大ヒットした。更に、1920年11月には正 式な公共放送(かつ商業放送)が始まった。最初のニュースはアメリカ・ペンシルバニア州ピッツバーグにおいての大統領選挙の情報で、ハーディングの当選を 伝えた。それまで音楽は耳で覚えて伝えていく形であったが、蓄音機の発明・公共放送の開始により音楽は急速に広まるようになる。庶民がラジオやSP盤で音 楽が聞けるようになり、音楽が広く普及していったのである。当時の有名ミュージシャンとしてはベニー・グッドマンやグレン・ミラーが挙げられる。それが 50年代にさらに前衛的なビパップ・ジャズになったのがアート・ブレーキー、チャーリー・パーカーなどである。

    (9)話を少し戻す。キューバの大衆歌謡として定着した「ハバネラ」は、キューバでは、ダンス音楽として進化していった。最初は下層階級の音楽と言われて いたが次第に中~上流階級にも普及して、「ダンソン」と呼ばれるようになり、大流行する。。これにさらに、歌が入り、テンポが速くなるなど変化していっ た。1930年にはチャチャチャが生まれ、キューバ、メキシコで一世を風靡、1950年代までブームが続いた。チャチャチャは「ダンソン」を早くしたも の。演奏も大編成のバンドにより行なわれるようになった。

    (10)1950年には“トリオ・ロス・パンチョス”によるラテンコーラスも大ブレークで本格的なラテンブーム到来となった。・・「キエンセラ」など。

    (11)1949年には、キューバからメキシコに渡ったペレス・プラードが、マンボのリズムを看板にした“ペレス・プラード楽団”を結成する。マンボはチャチャチャのリズムをシンプルにしたものでキューバ人から見るとチャチャチャの亜流であるとして長く認められなかった。

    (12)もう一つラテンで欠かせないものがある。キューバから南米大陸を経て独自の進化をとげた、タンゴである。ハバネラはアルゼンチンで「ミロンガ」と いわれるリズムになり、アルゼンチンはイタリア系移民が多かったので、独特のアクセントがつくようになってゆく。最初のタンゴ録音は「ラ・モローチャ」と いう曲で残されている。しかし、この頃はまだタンゴといってもハバネラと殆ど同じ。1910年にはバンドネオンが加わり、1917年頃ピアノ奏法が完成さ れた。1903年に作曲された「エル・チョクロ」は1905年に演奏された時のタイトルは「ダンサ・クリオージャ(新大陸風ダンス)」と名付けられたが、 だんだんと現在の演奏スタイルになってゆく。

    (13)日本ではどうであったか。端唄は江戸時代のセンティメント溢れる音楽である。他に流しの新内や三味線の門付けなどのストリートミュージックが日本の江戸の伝統として存在した。

    (14)明治時代に入ると別の音楽が生まれた。明治政府の富国強兵政策により日本音楽が禁止され西洋音楽が取り入れられた・・・その中のひとつが、軍楽隊 の音楽である。また、この明治時代、自由民権運動で壮士が盛んに演説を行なったが、次第に官憲の弾圧が激化、演説が駄目なら音楽でやろうということにな り、これが川上音治郎のオッペケペ節となる。後にこれが苦学生のアルバイトとしての書生歌となり、明治43年頃からバイオリンが加わって更にプロ化した演 歌となった(但し現代の演歌とはかなり違い、政治的・社会風刺的な内容)。

    (15)一方、日本で初期にダンス音楽を演奏したのは、軍楽隊、百貨店の少年音楽隊であった。ダンスホールが出来てダンス音楽の需要が増えてくると、ダン スオーケストラが組織された。このほか映画館や劇場のオーケストラもダンス音楽を演奏して映画、劇の幕間にアトラクションとして聞かせた。これらのバンド がジャズを知り、刺激的なリズムに憧れ、演奏した・・(1920年代)。当時のアジアにおいてジャズの中心地は上海であり、その上海を通じ日本人も本格的 なジャズに親しんでいった。

    (16)昭和初期には、これらのバンドの成立のほか、藤原義江、藤山一郎、淡谷のり子などの洋楽演奏家が主流になり、明治大正風の演歌師は民衆歌曲の主役 を去っていった。藤山一郎の「銀座セレナーデ」は日本の洋風歌謡曲のはしりでありハバネラ等ラテンのリズムが入っている。戦争中ジャズは禁止され、人々は 隠れて聴いていたが、例外はタンゴである。アルゼンチンは中立で敵性音楽でなかったので職業音楽家はタンゴを聴いていた。従って戦中~戦後の歌謡曲はタン ゴ風のオーケストレーションのものが多かった。
    更に、戦後世界的なマンボやラテンのブームの波が日本にすぐ上陸したこともあり、戦後歌謡曲にはすぐにラテン音楽の影響が現れた。これに日本的な発声が加 わり、昭和歌謡曲やムード演歌などにつながっていった。笠置シズ子の「買物ブギ」はジャズをベースにラテン風味を加えたもの。日本人はラテンを聞くと懐か しく感じる傾向があるというのは、この理由が大きい。一方で、明治~大正演歌の雰囲気はチンドン屋やジンタ音楽に受け継がれるが、次第に廃れ、昭和天皇崩 御の際数ヶ月間の自粛で商店街が次々に契約を解消したことにより事実上止めを刺された。

    (17)一方、ラテン音楽の世界では黒人公民権運動の影響もあり、1970年代終わりからニューヨークでヒスパニック(ラテン)系音楽家の運動が起こる。 それがサルサの創世となった。現在では、ただのダンス音楽になったサルサだが、当時は白人文化に対する強烈な批判という政治的なメッセージ、アメリカに住 んでいるラテン系の人々への呼びかけなどを含む過激性のあるものだった。

    (18)一方、アルゼンチンタンゴの世界でも、単純化し踊るための音楽であったタンゴに、クラシックやジャズの要素を混ぜ込み「踊れないタンゴ」を作曲するタンゴの革命家ピアソラが出現した。当初批判を受け人気もなかったが、後に彼のタンゴは世界的な広がりを見せた。

    報告者注:講演は、話の区切り毎に会場にそれぞれ該当する音楽を流し、出席者に音楽の変遷が理解し易いように配慮された。