(1)ペルーの事件から既に8年経過、記憶が薄れている部分もあるが、危機管理という切り口で、自分がどう生きてきたかを話したい。
[報告者注:ペルー大使公邸占拠事件は平成8年12月17日発生、平成9年4月23日ペルー特殊部隊突入により解決。犯行グループはトゥパク・アマル革命運動(MRTA)]
(2)アジア、アフリカ、中南米、北米、オーストラリア等植民地にもいろいろあるが、北米は植民者が原住民を絶滅させて乗っ取り、アジアは植民地化した後引き揚げている。中南米は植民者が乗り込んだ後、移住・独立し、原住民主体の国造りを行なった。
(3)元大統領のフジモリ氏はサプライズで選ばれた。当選した時、彼は「皆さんお待たせしました。2万年遅れて我々の政権が出来ました」と言った。これは 日本人の先祖の中にインカの親類がいることを言ったもの。彼は原住民の強い支持を得て当選した。また、当時のペルーはテロリストの勢力が強く、刑務所もテ ロリストが管理、出入り自由の状態であった。フジモリ氏はこの勢力に受け入れられて当選したが、テロ勢力をあれほど徹底的に叩いた大統領はいない。
(4)事件の前フジモリ氏と会う約束があり、8時に来るように言われ時間通り会見場所に行ったが、2時間も遅れ10時頃やってきた。「今テロを撲滅してき たから、もう安心だ」と言われた。これは日本大使館の近所にアジトを持っていたテロの一団を一網打尽にしてきたということだった。
(5)事件の発生
a)当日は天皇誕生日祝賀パーティで、18時30分~20時30分の予定。ペルーの大物は終了時間間際に来るので食べ物のお代わり等の手配をし庭に出た時にドカンという爆発音が起きた。最初は何が起きたか判らなかった。
b)テロリストは大別して2つのグループがあり、センデロ・ルミノソはとにかく殺す凶悪グループ、今回乗り込んできたトゥパク・アマルは営利誘拐目的のグループなので生命の危険は少ない。
c)事件発生時、公邸には使用人を含め850人位おり、テロリストは10数人。撃ち合いをやったら客に当たる確率は極めて大なので何とか撃ち合いを止めさ せなければならない。テロリストがマイクを持ってきたので「私は大使である。皆さん銃撃を止めて貰いたい」と言った(つもり)。
d)自分はスペイン語の勉強は2週間しかやっていなかったので、間違えたらしく銃撃は止まず。テロリストに誤りを指摘され「こう言え」と言われその通りに言ってやっと銃撃が止んだ。テロリストにスペイン語を教わるとは思わなかった。
e)850人もの人がいる状態は満員電車並み。先ず使用人、女性、老人を解放させ450人位残った。この人数が文字通り丸太棒のように転がって雑魚寝し た。一番心配したのはトイレの状況。翌朝見に行ったら全部詰まり悲惨な状態になっていた。これを若い人達が雑巾、モップ、バケツ等を使い、あっという間に 綺麗にしてくれた。
f)人質の中に大統領の母、姉の二人の婦人がいたが、服装が質素であったことが幸いし他の女性達と共に脱出できた。自分の妻は、直ぐ自分の部屋に入りジー パン等に着替え見破られずに脱出できた。脱出した人々はいずれも家があるので問題ないが、自分の妻は公邸から出るとホームレスとなる。やむを得ず大使館に 行き執務室で三日三晩寝泊りした。
g)拘留されている人数は450名でも多すぎるので日夜テロリストと交渉。ある種の人間関係を構築した。あまり敵対的でもいけないし、又へりくだってもいけない。いろいろな話をして少しずつ人質を解放していった。
h)外部との連絡は、国際赤十字、ペルー政府、テロリスト経由で行なわれ、全て検閲されるので自分の方からは当り障りのないことしか書けないが妻からは巧みに簡単な暗号を使って貴重な情報がきた。 i)少し例を挙げると:
「セニョール広島は東京におられます」
→広島出身の池田外務大臣が帰国したとの意味
「龍ちゃんから電話がありました」
→橋本総理から電話があった
「肥後モッコスが訪ねて来ました」
→熊本出身のフジモリ大統領が訪ねて来た
j)フジモリ大統領が来たのであれば、妻は公邸の設計図を大統領に渡したに違いないと判断した(事実渡していた)。それに基き、大統領は砂漠に同じ材料の模型を作り、特殊部隊の突撃の訓練をした。
k)テロリストとの交渉において、ペルー政府は「テロリストを無事に脱出させること」以外は一切受け入れないので当然ながら交渉は長期化した。4ヶ月とい う期間はいかにも長い。拘留されている間、毎日やることがないので、午前中は勉強会、午後は遊びの時間に充てた。勉強会は「ペルーの開発について」等の 他、外国語の勉強:スペイン語、フランス語日本語の勉強等を行なった。
l)毎日の食事についても妻の配慮が有難かった。市内のレストランでオーナー同士仲の良い2軒に依頼、一日一人10ドルの予算であれば一週間70ドルでメ リハリをつけ、両者が打ち合わせの上、毎回の食事にあっさりしたもの、肉中心等…適宜変化をつけて届けて貰うように手配してくれたので大いに助かった。
m)第三者から見れば変なことであるが、テロリストとの間にもある種の「親しい」関係ができ、ある朝呼び出しを受けて行ってみると4人の幹部から「おめでとう」と言われた。自分の「結婚記念日」であった。
(6)事件の解決
丁度マージャンをしていた時ドーンという音がした。こういう時は絶対動いてはいけない。相手は先ず撃ってから質問する。しかし一向に助けが来ないので庭を見るとペルーの特殊部隊が既に制圧していた。それぞれ庭に飛び降り、ようやく助かった。
(7)リスクコントロールと言われるが、クライシス・コントロールでなければならないことを実感した。日本は、何かあると責任者をクビにして終わってしまうが、事件からいろいろな教訓を学ぶことが極めて重要である。 |