第21回 「手塚治虫と 昆虫」   林 久男さん@59期

reporter:峯 和男(65期)

    日時: 2004年9月15日(水)11時30分~14時
    場所: 銀座ライオン7丁目店6階
    出席者: 61名(内65会会員:江原、大隅、太田、梶本、正林 高橋(相)、山根、結崎、峯)
    講師: 産業能率大学 経営開発本部講師 林 久男氏 (59期)
    演題: 「手塚治虫と昆虫」
    講師紹介: 59期卒。4年で北野中学を卒業、第三高等学校、京都大学農学部農芸化学科卒。住友ベークライト(株)に勤務、昭和 59年同社退職後産能大講師として行政体や民間企業の職員教育に従事し現在に至る。昭和21年日本鱗翅学会(蝶と蛾の研究団体)の設立に参画、現在に至る まで日本の蝶の調査、採集、飼育、研究に打ち込んでいる。
    講演内容:
    (要点のみ)
    (1)本年4月10日(土)六稜トークリレーで「手塚治虫と昆虫」という題で話をしたところ、東京でも話をするようにとの要請があったので今日は同じ内容の話をさせて頂きたい。

    (2)手塚君は平成2年5月、60歳で亡くなったが現在に至るも彼の人気は衰えていない。その一因は彼が作品に描いた未来の姿が次々に実現しているからと思われる。例えば、水中発射型ロケット、超高層ビルの立ち並ぶ風景、2足歩行型ロボット等‥。 彼の作品の根底に流れているものは、生命尊重と地球環境保全の思想であり、その重要性は今こそ大いに認識されるべきものである。

    (3)手塚君との出会いは、昭和16年北野中学に入学、1年3組で同じ班になった時。当時1クラス50名、級長、副級長を除く48名を12名ずつ4班に分けた。

    (4)クラブ活動の登山班(今で言うハイキング程度)の行事に、彼はネット(捕虫網)を持参、寸暇を惜しんで昆虫採集を行なっていた。 教室に珍しい虫の標本、図鑑、自ら描いた絵などを持参したり自宅に友人を招き標本の作り方なども教えていた。

    (5)自分は彼に次第に感化され、夏休みに入って最初の日曜日に宝塚の彼の家に行きコレクションをいろいろ見せて貰った。

    (6)その中にオサムシだけの標本箱があった。オサムシは歩行虫或いはマイマイカブリなどと言われているが、彼はこの虫は自分に似ているので好きなのだと言っていた。 彼の本名は「治」であるが、明治節に生まれたので明治の「治」をとって名づけられた由。ペンネームはこれに「虫」をつけ「治虫」と書き「オサム」と読ませた。「ジチュウ」と読まれるのを最も嫌がっていた

    (7)当時阪急デパートの2階で昆虫採集の道具を売っており、ここで道具を買い、彼につれられて宝塚、能勢、箕面などへ昆虫採集に出掛けた。 これらの場所には蝶をはじめ珍しい虫を沢山見ることが出来、これで昆虫採集が好きになった。

    (8)次第に、採集だけでなく研究がしたくなり生物の好きな者が入る地歴班に入ったが、これはあまり面白くなかった。その後、動物同好会を3人で立ち上げ「動物の世界」という雑誌を5冊作ったり、 「六稜昆虫研究会」を設立、彼の手書きで「昆虫の研究」を発行したりした。

    (9)彼の描いた「蟻の巣渡りを観る」は蟻の動きを実に細かく正確に描いていた。二人だけでやっていたため次第に種切れになり、ここで彼は漫画を登場させた。途端にクラス中の人気を集め引っ張りだことなった。 彼はこれ以外にも手書き随筆集「昆虫つれづれ草」「春の蝶」の他 手書きの「昆虫図譜」2巻を発行した。

    (10)北野中学の4年間は完全に戦争とダブっていた。入学の昭和16年に戦争が始まり昭和20年に終戦となった。昭和19年から勤労動員が始まり、次第に空襲の危機に晒されるようになった。彼がそれまでに書き溜めた作品を 危険分散のため宝塚の彼の家と吹田の自分の家に半分ずつ保管することとした。その後彼は東京に移り、引越しなどの折にその作品を紛失してしまい、自分が保管していた分だけが現在残っている。

    (11)昆虫採集と悲惨な戦争体験は彼のあらゆる作品に色濃く反映されている。昆虫に関しては、形だけでなく生態も擬人化されるなどして正確に描かれている。
    始めに述べた如く、彼は生命の尊さ、環境の大切さを作品の中で訴えているが、その原点は中学時代の昆虫採集や戦争体験に基づいている。