恩師を訪ねて【第19回】

一世紀を生きて

村上正己先生

    1900年1月28日、広島県の沼隈で生まれました。ですから今年でちょうど100歳。「もう100年か…よう生きたもんだな」という実感です。長寿の秘訣は朝の散歩かな。茨木の繊維高校の勤務時代に歩く習慣が付きましてね。それから毎朝ずっと。今朝もね、御所の石砂利の庭をね。
    初めは雨降りの日も傘を差して散歩してましたが、これはダメですね。僕の哲学として。食事には気を付けています。お酒は毎日1本(好きなんですがね…)。それから睡眠です。たいてい夜9時半には寝ています。それで朝5時過ぎには起きて。散歩ですよ(笑)。

    広島県沼隈の生家
    広島では福山中学に通いました。現在は県立福山誠之館高校と言ってますね。誠之館というのはご存じのように江戸時代の藩校の名前です。安政元年に老中、阿部正弘が江戸に開設。翌年、福山にも同じ名前の藩校を開設したのです。ここから明治専門学校に進学しました。これは現在の九州工業大学ですかね。明治40年に資本家の手で設立された私立の工業専門学校でね。僕が通っている間に4年制となり、卒業後すぐに助手の職につきました。
    しかし一番気性の荒っぽい時期でしたからね。25歳くらいでしたか。助手では飽きたらず、新聞記者から政治家になってやろうと思って飛び出しました。手ほどきをしてくれる人が居たのです。しかしね、世の中そんな思った通りになるわけがありませんよ(笑)。
    うまく行きませんでね…遊んでいるわけにもいかないので母校に相談したら、ちょうど「愛知一中で数学の先生を募集してる、行ってみんか」ということになり(僕は工業の学校を出ましたが、工業の免許と数学の免許を貰っていました)、これを受けました。現在の旭丘高校ですね。

    この中学がたいへん変わってましてね。成績はいいのですが、甲・乙学級は暴れん坊組、丙・丁学級は秀才組で、きっちり二分されてました。校長の流儀で「スポーツする者はスポーツを、学問をやる者は学問を」という方針だったのです。
    ところが、スポーツをやるほうの学級が、だんだんガラが悪くなってきてね。乱暴な学校でした。あんな学校は知りませんね。赴任してみるとガラス窓が半分ほど無いんです。県もガラスを入れないんですね。入れてもすぐに割るからと言って(笑)。

    ここでは「ザンバ」という渾名で呼ばれてました。そのころ流行っていた映画の題名で…主人公のライオンの名前だったのです。ある日、生徒が体操の授業を見 学しているので理由を聞きましたが返事がありません。「こやつ、おかしな奴だ」と思っていたら、いきなりライオンの吼える真似をして「ウオー」と飛びか かってくるんです。ひどい奴がおりました(笑)。

    そんなでしたが、不思議とよくデキる学校でした。八高(現名古屋大学)には毎年50人から60人が合格してました。八高の学生の5分の1は愛知一中の卒業生で占められていましたから。僕も教師として最初の学校だけに、この愛知一中のころが一番懐かしいですね。

    聞き手●菅 正徳(69期)、壽榮松正信(74期)
    収 録●Jan.24,2000
    (京都市内のご自宅にて)

Update : Jan.23,2000

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