恩師を訪ねて【第23回】

村上正己先生(4)


大阪の紡績業は全国トップクラスだった
(此花区、大日本紡績株式会社)
※郷土出版社『大阪市の100年』より

絶妙な幸運人生

    戦後の高度経済成長期に繊維産業が活発になり、紡績協会が繊維専門の高校を作ろうということになって大阪市へ相談に行ったそうです。そしたら「村上が遊んどるから」ということになって…繊維工業高校の設立に関わることになりました。てっきりたくさんのお金があるものだと思っていたら、お金の価値がどんどん下がっていて、ここでも苦労しました(笑)。寄付を集めに会社回りもしましたよ。当時は「ガチャマン」といって…紡績工場で「ガチャン」と音がする度に「1万円」儲かったような時代ですからね。
    用地についても、茨木のほうにゴルフ場の土地があったのですが、幸い教え子がそこの専務をしていてトントン拍子に話が進みました。それで普通の高校なら7,000坪程度なのですが、20,000坪ほど買いました。

    こうして生まれた繊維高校の初代校長を勤める傍ら『デモシカ先生奮闘記』を書きました。僕は、今から思うと運が良かったと思いますよ。戦争直後、熱心に教 育した先生はみなパージに遭いましたからね。僕も一生懸命頑張った心算でしたが(笑)、それまでに書き物を残していなかったのが幸いしてパージに遭わずに 済んだのです。
    その後、ご存じのように繊維産業が斜陽となり、繊維高校は普通科の高校へと切り替えました。今の摂稜高校ですね。そこで第1回の卒業生を送りだして現役を引退しました。70才の頃でしたかね。

    それから余生はずっと散歩です(笑)。バスに乗って御所に通いました。90歳を過ぎてからは毎日というわけではありませんが。
    愛知一中時代に結婚をして子供は4人もうけました。一人だけ幼少で亡くしたほかは、みな頑張っています。
    家内の親父の影響か、骨董には目がありません。大阪の坂間市長から戴いた書は今も大事にしています。読み書きもそう不自由はしていません。北野の新校舎が完成したら、ぜひ訪れたいと思っています。

    聞き手●菅 正徳(69期)、壽榮松正信(74期)
    収 録●Jan.24,2000
    (京都市内のご自宅にて)

Update : Apr.23,2000

ログイン