恩師を訪ねて【第24回】

造船工学を目指して

石田千代之輔先生

    Q.まずお生まれから。
    私が生まれたのは大正13年7月18日、大阪のど真ん中の東区(現中央区)南久太郎町1丁目、石田屋という酒屋の次男でした。小学校は浪速小学校でした。 このころ商家の長男は店を継ぐので商業学校に行くのが普通でした。私は次男だから北野中学へ行かせてもらえました。浪速小学校からはたしか3人入ったと思 います。昭和12年の入学で、卒業は昭和16年、4年終了(55期)です。Q.勉強のよくできるまじめな生徒だったのでしょうね。

    まじめな生徒だったと思いますね。2年・3年は級長でした。それでも水鳥先生が部長をしておられた登山部に参加して山にはよく行きました。大峯山などは思 い出深いです。ただそのころはもう日中戦争が始まって先生方の応召もよくありました。図画の岡島吉郎先生なんかも出征されました。それでもまだまだ世の中 のんびりしていて、後の期の様な緊迫した学徒動員などは経験せず、勉強に打ち込めた時代だったと思います。

    Q.北野を卒業されてあとは阪大工学部でしたか。

    まず大高(旧制大阪高校、現阪大)の理科に入りました。もともと3年の学校ですが、このころは2年に短縮されて昭和18年10月に阪大の工学部造船科に入 りました。戦後の21年9月に阪大を卒業することになるのですが、もう戦争で勉強どころではない。私も技術依託学生ということで、陸軍砲兵工廠の中の姫路 白浜製造所というところで、上陸用舟艇の設計にかかわっていました。

    聞き手●稲森久彦(69期)、小寺範生(69期)、菅 正徳(69期)
    収 録●Apr.8,2000(69会・花見の会/大川堤にて)
    Nov.11,2000(69期7組の会/ハービス大阪にて)
    Dec.24,2000(石田先生邸にて)

Update : Jan.23,2001

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