恩師の近況1997【英語】

上田浩石先生

【英語】
昭和25年~昭和52年

    月日の経つのは早いもので、私も今年70歳になり、感慨無量と言うのでしょうか、「あの大戦争と病気を通りぬけて、よくもまあ今日まで生きさせていただ いたものだ」と感謝致しております。昭和52年に北野高校から神戸の灘高校へ転勤した後、平成4年9月に胃癌で胃の3分の2を切除し、平成7年(阪神大震 災の年)の3月末に、灘高を定年退職しました。その後、日が経つにつれて、ますます健康を回復しているようなので、誠に有難く思っております。今のところ、個人的に仕事を頼まれる以外は、家の中の片付けや、修理や、周囲の手入れや読書や勉強やらで、何となく毎日毎日忙しくしています。昔は、定 年後の生活とは、もっと「のうのう」 とした、明るい日の光に満ちた、のどかな毎日が続いて、好きなだけ本を読み、居眠りをし、将棋をさし、喋り、何日でも旅行できるものと空想していたのに、 何とまあ、現実の生活は、きびしく、せせこましいのでありましょうか。何十年もの間、積んだまま、押込んだまま、見てみぬ振りをして、放置してあった無数 のものを、少しずつ取り出しては雑用を次々に作り出して追われております。

葛西憲徳先生

【英語】
昭和23年~昭和57年

現在、小生85歳で、坐骨神経痛で通院していますが、老人としては元気の方でしょう。家の中でも杖をついて暮しています。北野の生徒は全員 gentleman であり lady であった。それに第一、頭がよかったし、又先生方が皆実力者で、超一流の学校であった。当時は教員の採用も校長が決めたもので、学歴、学力、人物を一対一 で面接したものでした。私の場合は長坂五郎校長でした。東大出の人格者で立派な人でした。以後9人の校長につかえ努力しました。

昭和13年、日中戦争で静岡第34聯隊入隊、山西省、廣霊、張家口、包頭、ノモンハン事件に参戦、15年に召集解除。昭和18年北野中学(夜間)大手前 女学校に在職、太平洋戦争で再びニュブリテン島、ラバウル、ニュアイルランド島に従軍、ジャングル生活。昭和21年に日本に帰国。九死に一生をえて、昭和 24年大手前と北野男女共学。57年3月31日まで北野高校につとめ、願により退職。PTA主任も15年間勤めました。以後無職、年金でほそぼそと暮して います。私は40歳より60歳くらいの時が一番はりきっていたようです。京大へ入学した生徒も毎年100人以上でした。この頃の北野が一番なつかしく、又 楽しかった時でした。拙文で失礼致します。

片岡嘉門先生

【英語】
昭和37年~昭和56年

    私が北野高での在職期間は20年間、一番印象的だったのは、先生方が本当に熱心に授業に打ち込んでおられたこと。それに応じて優秀な生徒諸君(男女と も)が、よく頑張っていたこと、ご承知のように京大・阪大へそれぞれ100人以上合格してくれていました。よき一つの時代でした。現在の北野は時代の流れ で少し様子が違うようですね。あの頃ご活躍の先生方も次々と亡くなられています。浦野校長、長谷川、平石、植村、真田、西田、伏谷、田上、岡田・・・諸先生方、心からお悔やみ申します。うたゝ今昔の感一入です。

    さて、私自身の近況をごく短く。
    通算46年の教員生活(予備校専任教授を含めて)に今春おさらばをしてフリーの身となりました。お陰様で料理好きな老妻共々まずは元気でおります。

    最近していることは次の3つである。
    (イ)読書、主として歴史や古典の類
    (ロ)海外旅行、すでに6・7回
    (ハ)趣味としては囲碁(日本棋院へ時々)にハマリ、歌舞伎に少々傾いています。

    今一つは、長男(医師)の一人娘(2歳)が、月2回やってくること。魚のことを「かな、かな」。こんな程度の片言ですが。
    さいごに、今は立派な社会人となって居られる、皆さん方のお元気で一層の御活躍を祈りつつ。

酒井 孚(マコト)先生

【英語】
昭和12年~昭和15年

意見を申すよりは、希望として1つ。玄関の床面にあった「MCMXXX」のタイルは、新しい建物でも使って欲しい。勿論、年号の数字…の部分は変えて。

昭和13年4月より、当時の3年生の SideReader として、Shakespeare の Hamlet (の抄訳 by Lamb )を使い、これを English through English でやることとなりました。その担当が教科主任の木村喜逸先生と馬場英一先生、それに駆出しの小生の3人が当ることになりました。木村先生は大ベテラン、馬 場先生はアメリカ帰りの、これ亦ベテラン。小生は面喰ったことを覚えております。それが、7月に入り、小生モテアマシ気味で、木村先生に教えを乞いに参り ました処「ナンダ。君。マダヤッテタノカ。僕はトウニヤメタ」とのご託宣。

後年、豊中高女(現桜塚高校)へ転勤。1年担当の生徒の中に、永井徳子さんという人が居て「兄が北野で先生に習ヒマシタ」と言われて、ここでも、唖然と したことを覚えております。(永井さんは、確か大きな仏具商でした。徳子さんも70歳をお越えになり、それからその兄君は70代半ばか?)

島川茂清先生

【英語】
1982年~1991年

今年から高津高校に勤めています。最近は、映画を使っての英語教育に関心を持ち、研究してきましたが、今年の授業では(放課後ですが)、希望者を集めて映画を使った英語の学び方を伝えています。参加者は皆楽しく学んでいます。

「あなたが寝てる間に」と「フリーウィリー」を使いました。それと家ではインターネットを利用した英語の学び方を研究しています。将来の英語教育は、かなり変わったものになるだろうという気がしています。

竹尾治一郎先生

【英語】
1956年~1962年

    私自信がメンバーの一人である同窓会からは、年間を通じ、いろいろの連絡をいただきますが、インターネット・ホームページへのお招きを受けるのは、これが初めてです。まず近況からお答えするのが順序でしょう。私は今年の三月、関西大学を定年で退職しました。これで、北野高校の定時制課程を振り出しに、足掛け46年に およんだ教員生活にも終止符を打ったことになります。現在は週一クラスだけ大学院の授業をしていますが、その他はたいてい家にいて読書したり原稿を書いた り散策したりして過ごしています。無益なストレスから自由な境涯におかれて、かねがねしたいと思っていた仕事に戻ることができると、ご多分に漏れずしばし ば思うことは、どうしてもっと早く、もっと先まで進んでおかなかったのだろうということです。

    おそらく多くの方々とも同じように、この数日のテレビで見た、あの、ありふれた事故死を遂げた非凡な女性、ダイアナさんの葬儀の模様がとても印象的でし た。ご承知のように、17世紀後半の英国では名誉革命が起こって、ジェイムズ二世が追い出され、ウィリアムとメアリが迎えられました。その後でジョン・ ロックの『市民政府論』が、いわば名誉革命を理論化するような形で書かれました。今回の二百万人の葬儀なども、だれかが中央で計画し組織して起こされた運 動ではなかった点、そのパターンにいくらか似ていないでもないような気がします。つまり、イデオロギーや号令が先行するのではなく、それらが後からついて 来るのがあの国の伝統のようです。私はかねがねそうしたことは理屈としては分っていても、実際にこんなに劇的な形で起こるとは予想しませんでした。私自身 はそういうことを特に望むわけでもないのですが、ことによったら近い将来、日本の宮内庁の役人らがうろたえるような事態が、古いユーラシア大陸の向こう側 で、まるで日本国民に新しい時代のお手本を示すかのように、発生するのではないかと思っています。

田中正博先生

【英語】
1982年~1992年

皆さん、お元気ですか。覚えていらっしゃるでしょうか。英語の田中です。相変わらず元気にやっております。ただ、近頃の学生はぼくにとって極めて理解し 難く、日々頭を痛めております。この者たちが将来社会に出て、日本の社会の一部(一部だと思いたい)を構成することになるのかと思うと、本当に心が痛みま す。今の日本の若い者達は、いったいどうなっているのでしょうか。

水鳥喜平先生

【英語】
大正15年4月~昭和24年11月

    私は運動神経がとても鈍いので、ラグビー、野球、庭球のような華々しい部にはいることは出来ませんでした。やっと山本地理やん先生に拾われて、登山部に はいり、生徒さんと、日曜ごとに山に登っていました。夏期休暇には北アルプスの山々は勿論、当時中学生は登らなかった南アルプスも聖岳(ひじりだけ)を除 く全部に登山部の生徒さんと一緒にりました。まことに楽しかったですが、寄る年波には勝てず、本年(平成9年)から山登りはやめることにしました。そうすると、早速本年の2月13日、六稜稜友会の昼食会の帰り、突然歩くことも、話すことも出来なくなりました。幸い、一過性脳梗塞でしたので、今は早 朝一万歩あるいています(脳梗塞には散歩が良いそうですから)。また、アメリカのタイム誌と英文毎日とは、ずっと続けています。これも北野に長くお世話に なった山登りのお陰と感謝しています。

Last Update : Sep.20,1997

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