恩師を訪ねて【第3回】

キタノの美術と自由主義教育

中村 弘先生

    ボクはね…北野中学の頃はあんまり勉強せーへんかった。席次も、常にお尻に2~3人ずつ確保しながら卒業したほうでね(笑)。
    当時、美術を担当しておられたのが中村堯興先生。そもそもこの人も北野の卒業やったけれど、ボクの親父も、親戚や従兄弟もみな北野で、この先生に習った んや。だから何かというと「お父さんは良く出来たのに…」と口うるさく比べられてね。それでボクは徹底的に劣等感を持たされた。とにかく、何かと言うと親父や親戚なんかと比べられたのが辛かったな。でも…ボクが2年生のときに堯興先生が亡くなってね。代わりに見えたのが岡島吉郎 先生やった。そのころボクは美術部のキャプテンしてたから…以来ずっと、亡くなるまで岡島先生にはお世話になった。最期に先生が病院へかつぎこまれた時 も、ボクが面倒を見させていただいてね…本当に長い間のおつきあいやったな。

    岡島先生はもともと天王寺高校に勤めてはった。北野へ来られた当時はまだ非常にお若くて本当に恐かったね。ボクらの年代の連中にはみな「岡島先生は恐 い」という印象がある。何かあると、いつも大きな声で怒鳴られたからね。でも…本当にえぇ先生やったなぁ。ボクなんかは、お宅に何度もお邪魔してね…庭に 大きな柿の木があったから、ちょうど今ごろの季節には「柿喰いに来い~」とよく言われたよ。絶えず卒業生がやって来て…正月なんかはスキヤキと柿の葉寿司 をご馳走になるのが風物詩やった。

    岡島先生はいつも語尾に「~ネ」をつける癖があってネ(笑)。…東京で長い間勉強されて来られて、そのために東京弁が知らず出ていたんだと思うけど…そ れをボクらは「ネ~ちゃん」と綽名をつけて呼んでたんや。ところがその頃、数学の先生にも「ネ~ちゃん」がいてね…それで、ボクの後の代になって、いつし か岡島先生を「カメ」と呼ぶようになったらしい。ボクは知らなかったンだけどね。恒例になった「KAME展」も、その辺りに端を発してる…。

    ボクらの頃は4年修了で高等学校に進学できたから、それで美術学校を受けてみたけど、やっぱりダメだった。それから少し慌てて勉強したら…とりあえず スッと上級はできたンや。本当は5年に上がれるかどうかも怪しかったんやけどね。そのとき初めて、担任の武市先生に褒められた。「中村、お前…やったら出 来るねんな。」 そうして北野を5年で卒業して、東京へ出た。でも、なかなか東京ではストレートで美術学校に入れないンで、春日町にあった…その頃一番大きな美術の研究所(いわゆる塾やね…)で1年勉強をして、それから帝国美術学校へ行ったんや。今の武蔵野美大やな。
    というのも、友人の叔父さんが有名な画家で、一度相談に行ったんやけども「いわゆるアカデミックな上野よりも、むしろボクはそっちのほうを薦めるヨ。」 と言われてね。「教授陣なんかも“独立”や“二科”なんかの進んだ連中が揃っていて…なかなかイイんじゃないか…」。その言葉で、ボクは帝国美術に決めた んや。

    それから長いこと東京にいたんやけど…親父が歳をとって「おい…もうボチボチ帰って来いヨ」と言うンでね。帰るにしても「仕事が無いコトには帰っても来 れん…」と言うてたら、そのころ親父が教育委員会におったもんやから…ちょうど北野の校長も「タワシ」という綽名の藤井通雄さんで、ボクも北野出身だっ た…ということから「中村クン。チョット来ないか」ということになって。ボクみたいに成績の悪かったモンでも北野の先生になれるんかいな…と皮肉に思うた んやけど。以来それから定時制の美術を教えるようになった。ちょうど110周年の時に「昼のほうと夜のほうと両方持ってくれ…」ということになって全日制 でも勤務したんやな。

    北野というところは…やっぱり堅い教育をしてたと思う。ボクは小学校が奈良の女子高等師範学校の附属小学校やったもんで…その時の担任が徹底した自由主 義者やった。教科書は卒業間際まで一切使わなかったし、ぜんぶ自分でやられた。そういう教育が子供心に非常に印象に強かったのと…アト、美術学校へ行った ら「自由」そのものでしょ。だから北野時代だけやな…締め付けられたのは。徹底的に。

    その反動かな…。昔、美術教育は「デッサンがしっかり描けて、それから油絵…」というふうな手順やったけど、そんな考え方は全然古いんで、僕は一切やら なかった。唯一やったことといえば…自己評価の紙を持たせて、毎時間の終りに自分で自分を評価する…そういうのをやらせた。そうするとね、「何のために美 術をやっているか」というのが自分で見えてくる。

    そのカードには「学習目標」の欄があって、やりたいことを自分で決めてそこに記入する。そして1年分の記録欄があって、初めに自分で年間の計画を立てさせるワケ。それに則って、今日はどうだった…と自分で採点する。作品ができるとそれを一緒に持ってくるわけやな。
    ボクはその自己評価表を見ながら(ボクのほうでも閻魔帳をつけてるから)…「おまえ~この日はやっとれへんぞ~。まぁ、えぇとこ『4』やな…」とかね。遠慮して「3」をつけてる生徒には「何言うてんねん。これは『5』やないか」とか。
    それら全部の合計が100点満点になるようにして、学期末には平均を出したり…そんなふうにして成績を決めてたから、生徒も自分で分かってたと思うよ。

    案外…みんな、ちゃんとしよる。サボって後ろめたい日は「2」とか「3」とかつけてね。ボクはそれだけは自信があったな。生徒が自主的に採点して…ボク がする必要は全然無かったンや。さすが「天下の北野」や思うたね。他所の学校でも同じことをやったンやけど…。ともかくボクは「美術」については、各人が 自由にやりたいようにやればいい…そういう信念でやってた。

    昼と夜と…12年間、人数にしたら大分教えたなぁ。殊にね、定時制の連中というのは昼に仕事を持ってて苦労をしながら夜間に通っていた連中やろ。だか ら、いまだに付き合いがあってね。随分、優秀な人が多かったよ。昭和の十何年頃かな…その頃は大学の進学率といったら定時制のほうが上やったンやから。た だ、経済的に昼間は行けない…というだけの生徒やったからね。 ボクが北野を辞める2~3年前頃から、生徒の質というか程度がだんだん芳ばしくなくなってきた。そう言われてる。
    だけどね、ボクらの期の連中でも「あいつは不良や…」言うてたけど、みな大した人物になってるし、そんなのに比べたら全然…おとなしいもんや。やっぱり、北野やから「ワル」いうても大した「ワル」やないんや。

    ボク自身、北野では出来へんほうやったから…あんまり偉そうなコトはよう言わんけどね。そのぶん友だちの範囲は広いよ。よう出来たヤツとも仲えぇし、ワ ルーい奴とも仲えぇしね。学校出てしもたら成績なんか何も関係ない。そういう意味では、北野で良かったコトといえば「いい友達が持てた」ことやな。
    三菱レイヨンの会長やってる河崎とか…これは兄さんも東洋紡の社長で偉かったけどね…今でも仲良くやってる。それから、僕らの同期は旅行が好きで、僕自 身が…もちろん、絵を描くンで…アチコチ行くんやけどね。同期で募って旅行したり、毎月(第2木曜やったかな)梅田の地下にある蕎麦屋で20人くらい集ま る。同期の友人の弟サンが経営してる店なんやけどね。最低でも10人は集まる。

    酒を飲みながら…とくに決まった話題があるわけでもないンやけどね。ひとり…体の悪いヤツがおると病気の話になったり…そうすると医者してるモンもおったりで…ひとりでに盛り上がるんや。酒飲んで。蕎麦喰って。そして「さいなら」…それは、えぇ仲間やで。

    他所の学校との相対的な比較というのは難しいけど、北野を卒業してからも絵を描き続けたり、自分の生業にしている人は結構、多いンとちゃうかな。120周年の時に、内藤クンが六稜会展で集約してくれたけども。

    「だいたい北野は美術に向いてる学校とは違うンや…」よく言われたけど、全然そんなことなかったンやね。それが今のボクの実感やな。

    聞き手●岸田知子(78期)、
    佐伯新和、谷 卓司(98期)
    収 録●Nov.4,1997

Update : Nov.23,1997

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