江崎校長の思い出
寺田正一郎先生
- 生まれは西区靭中通の古い海産物問屋で、御霊神社の氏子でした。曾祖父の代から続いていて、屋号を備前屋久兵衛、略して備久と名乗っていました。古い知人のなかには、私のことを未だにビンキュウさん、と呼ぶ人もいます。その備久の長男坊として生まれたのです。
小学校は近所の靭小学校で、確か3年生か5年生のときに御霊さんの裏手にあった文楽座が火事で焼けたのを今でも微かに覚えています。親父は私をみて「どうも商売には向かん…将来は医者にでもならせよう」と思っていたようです。そして昭和3年、晴れて北野中学に入学したのです。
当時はまだ中津の芝田町に校舎がありました。校長が北野中興の祖と言われた江崎誠先生で、本当に偉い先生でした。背が低く、足は短くて横歩きの感じが 「かに」というあだ名の由来だったかも知れません。常に Gentlemanship ということをおっしゃられて「カンカンになって勉強をするような点取り虫にだけはなるな。品性を養い、紳士たれ」というのが口癖でした。
芝田町の校舎には立派なポプラ並木があって、ラグビーの天中戦というとその下に下級生が呼び集められるんです。そこで明治30年代の美文調の演説をぶつわけです。
「西の空に真紅の夕陽が沈むとき、諸君は何を見たか…」てな調子でね。しかしハッキリ言って、その頃の北野はラグビーではそんなに強くなかったけどね。
当時の北野には(今もそうだと思うけれども)学識の深い立派な先生が多かった。お亡くなりになった浅田甚吉先生などは、あだ名は「飴ちゃん」(浅田飴か らきた)と呼ばれてましたが、甘いどころか英語に関してはとことん厳しかった。おかしな返答をしようものなら「何言ってるんでぃ」とチャキチャキの江戸弁 で怒られたものです。
図画の中村堯興先生などは絵の先生だけれど、すいぶん英語が達者で、当時おられたネィティブの先生(ジョン・ケア・ゴールディ)に時間割の説明などをして、生徒たちも大層感心したものです。
ゴールディ先生には2年生と4年生で会話を習いました。当時、外国人の先生がいたのは北野と豊中くらいなものでした。もちろん、すべて英語でね…ゴール ディ先生は成績の良い者に外国の珍しい切手をくれるんです。私も名前を呼ばれて行くと「the best boy」とか何とか言って切手をくださった。嬉しかったですね。
ちなみに『The King’s Crown Reader』を教科書にしていましたが、これは府下では大倉商業と北野だけだったんです。とにかく英語のレベルは高かったです。
また、天皇の名代として本多侍従が差し遣わされましたのも私が2年生の時でした。石井秀平君、渡辺三郎君と私の3人が選ばれて接待役をおおせつけられた。天皇ご自身は都島工業へ行かれたらしいのですが、名代といったら天皇と同じなわけです。
前の日は風呂に2回入って斎戒沐浴です。みんな緊張で手がぶるぶる震えておったですよ。校長室に本多侍従が江崎校長と並んで坐っておられるところへ、お 茶を捧げ持って行くのですが、入り口の敷き居のところで危うくけつまづきそうになって…ちょうど中村堯興先生がおられてサッとお茶を取ってくださって、事 無きを得た。あれでお茶でもこぼしていたら、私は帰りに土佐堀川に身投げしていたと思います(笑)。 3年生の終わりから4年生の初めの頃に十三校舎が完成して…生徒が中津から橋をわたって淀川堤を机や椅子といった特別教室の備品を運んだものです。白い ゲートルはいた生徒が理科室の人体模型なんか持って歩くわけです。「ホー、北野の引っ越しか」と当時の人々が見ていましたよ。
新校舎のあたりは他にほとんど何もない原野…という感じで、となりに墓場がありました。地歴の土屋憲三先生が「墓場は人生を考えるよすがである」なんて言われていたのが、今でも印象に残っています。
落成式には斎藤宗宣/大阪府知事、楠本長三郎/大阪帝国大学医学部長などが祝辞を読まれて凄いもんやなと思いました。生徒はこの式が終わるまでは校内上靴禁止だったんです。靴下のままで歩けと言われてました。
教室に暖房が入ったのは嬉しかったですね。ところが外へ出ると寒い。温度差で風邪ひきが多くなった。それを見かねた江崎校長が府へ交渉をされて「北野の 生徒はいつも勉強をしていて身体が弱い。オーバーの着用を認めていただきたい」そんなことを言われたのではないでしょうか。以来、北野の生徒は通学時に カーキ色の指定のオーバーを着ても良いことになりました。
当時はみんな弁当の時代で…スチームの上にみんな乗せるわけですよ。4時間目くらいになると美味しそうな匂いが充満してました。食堂はまだありませんでしたね。パンは売っていましたけれど…そのサンドイッチか何かから、かのチフス事件が起こったんです。
新聞も大騒ぎで報道しましたが、8人死亡。追悼会で江崎校長の「あぁ、悲しい哉」という肺腑をえぐる言葉が今でも記憶に鮮明に焼きついています。
江崎校長にはもうひとつの思い出があります。先生が亡くなった時の追悼集にみんながこのエピソードを書いていたので、よほど印象深かったのだと思います。
卒業式の後の同窓会入会式(?)だったと思いますが、元気な男がひとり立ち上がり「時局多難の折り、われわれは身体を鍛え、御国のために役立つ人間にならねばならぬ。病気などする者は陛下に対してお詫びすべきである」というような演説をしたのです。
そこで江崎校長はすっと立ち上がり「なかなか元気のある発言ではあるが、私はそうは思わない。正岡子規を見よ。病床にあっても俳句革新の大事を成したで はないか。病気の人であってもその人のやれる文化的な仕事をやれば良いのである」と言われました。一同シーンと聞き入りましたね。
友人では瓜生忠夫君が同級生です。大高に落ちて一念発起、三高から東大独文へ行った…思想を持った映画評論家として名を成しましたね。
野間宏さんは1年上の先輩です。当時から「野間宏、◯◯◯◯の懸賞論文に当選す」という張り出しがあって、名前はよく知っていました。
【つづく】
聞き手●菅 正徳(69期)、谷 卓司(98期)
収 録●Jan.15,1998
Update : Jan.23,1998