恩師を訪ねて【第9回】

自分がえぇ思たらえぇンや

福田博造先生

    ボクは大正14年6月、大阪のど真んなか船場で生れたんや。通った小学校も文字どおり船場小学校やった。家はイトマンの向かいで、やはり家業は繊維の関係でね。
    兄貴が理科系で…戦争中は「理系大事」いう雰囲気やったからなぁ。世の中の風潮がそうやったし…それで、ボクも浪速高等学校いうところへ行くことにしたんや。今の阪大やね。当時の大学の理学部いうたらね…物理科20人、化学科20人、数学科10人の50人しかおれへなんだんや。ほんまの小人数やった。その頃の同期で、阪大 の教授やら京大の教授やらしてる人が何人かおって…今でも十三で逢うたりしてるんやけどね。教授いうても「◯◯先生」なんて呼ばないで「◯◯サン」とか言 うて…今でも親しうしてるけど。

    当時はね、大学の先生が「えぇお茶あるから入れたるわ」言うてくれはっても、お茶より饅頭が嬉しかった時代やからね。先生には「大学いうのは動物園のよ うなものやと思え。象もおればライオンもおる。先生のええ所だけ盗め。まるきりその人になったらアカン」て、よく言われた。みんながえぇとこ持ってはるか ら、そのえぇとこだけ盗んで「それ以上の人物」になれという教えやったんやろね。

    ボクはそんな大学時代に胸を患うてね。戦争中はレントゲン検査しても大丈夫やってんけど。戦後はもうレントゲン検査も何も無くてね…。阪大におったか ら、「しんどい」言うて阪大のお医者さんに診てもうたら「影有るで」言われてね。「治りますか?どうですか?」いうて聞き返したら「もう治らん」いうて宣 告された。
    「栄養つけて静養せえ」言われても…食べ物もない、薬もない…えらい時代でね。もうちょっと早うにマイシンやらあったら楽やってんけど…そんなん無かったからね。
    当時の結核研究所の所長さんの書いてる本読んでみたら「治療法は無い」と書いてあったんやから…そんな時代にね、大学の先生に「病気やいうても負けたら あかん。50か60まででも精一杯がんばれ」と言われたんや。結果的には、頑張って治して…今、もう70になったけどねぇ(笑)。

    大学に復学して、大学院におったんやけど…その頃たまたま北野から「来んか?」いう話になってね。25歳で先生になったんや。何にもない時代でね…旅行 しよ思たら、米を持参せなアカン時代やった。当時の校長先生が大高の教頭してはった人で…(故意にしはったわけやないやろけど、大高出身者が多かった ね)…それでかどうか、旧制高校の雰囲気が色濃く残ってて、ボクには北野へ来てからが学生時代みたいな気分やった。林校長はボクのことを「福田先生」とは 呼ばないで「福田クン」いうてなぁ。結局、昭和25年に赴任して59年に退職するまで…34年間、ボクは北野しか知らなんだ。実は女房も教師で、生物を教えてたんや。男女共学になった時に大手前から女子生徒を連れてきて…当時は職場結婚も多かってんで。はじめは園田に住んでた ンやけど、子供が北野へ行きたいと言い出してね。ボクが越境させるワケにはいかんので引っ越したんや。長女が昭和48年の卒業(85期)、長男が50年 (87期)…親子4人とも北野関係者なんや。
    林校長の頃から教師の子供が北野に行くのは結構多かったなぁ。教頭、雫石先生とこもやね。ボクの知ってる限りでも20人位はいる。それはね、北野をよう知ってて、知れば知るほど入れたいと思うねんやろな。

    北野がええのは自由やし、それが何より一番よかったねえ。学問も大事にするけど、それだけやあらへん。芸術も大事にする。いまそこの壁に掛けてる書は阿 部先生の筆やで。音楽の木川田先生も今では関西二期会の理事長されてるし…。レベルは高いモンも低いモンもおってえぇんや。
    北野の生徒にはね、速いこと走るやつもおるし成績のえぇやつもおる。これは実際、比べられへんねんな。いろんな奴が混じっていて世の中が出来てんねんか ら、何が一番価値がある…とかいうンやのうて、みんなそれぞれがおってえぇんや。銀行員が偉いんか、政治家が偉いんか…そうやなしにね。ボクやなんかで も、認められへんだかも知れんけど「自分が精一杯した」…これが一番ええんやからね。

    こないだ、ある期の同窓会でも言うたんやけど「みな自信持って行け。人が無視しよっても自分がえぇ思たらえぇンや。例えばオリンピックでは140メート ル飛んで喜んでるけど…家帰ったら鳩でも雀でも飛んどる。それが価値ないと思うたらそれまでやし、世界で誰もでけへんことや、価値があるンや…思うたら、 それは凄いことや。せやから…何でも自分にとって世界一価値あると思うてせんとアカンのや。」

    ボクね、大学で博士になったら凄いもんやと思うてたけど、実際は博士になったから言うても大したコトあらへん。「教授」いうたらその当時は神様みたいな 存在やったけど、いざ教授になってみたら全然大したこと無いんや。一番大切なんは「一日一日、精一杯せぇ」と。現状に満足したら無気力の敗北者になる。満 足してもなお、明日に向上するようにやっていかなアカン…そう、思てんねんな。

    予備校でも「京大入らなアカン」「阪大入らなアカン」「私学やからアカン」とか…そんなん思うなよ、言うてんねん。
    あのな、ボク…ずーっと大阪に生まれて育って働いて、北野の次の職場の予備校だけは京都にしたんや。十三に北予備いうのがあって、そっから随分「来てく れ」言われてんけど…あっこ行くと、北野に随分近いやろ。あんまり予備校いうのが天下りみたいになっても良うないし。それがどうしても嫌やったんや。それ で京都の近畿予備校に行くコトにしたんや。北予備やったら便利で良かったんやけどナ(笑)。

    聞き手●近藤喜治(55期)、上田博唯(77期)、石倉秀敏(84期)、
    島谷宏子(91期)、谷 卓司(98期)
    収 録●Apr.5,1998
    (豊中市服部本町のお宅にて)

Update : Jun.23,1998

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