恩師を訪ねて【第11回】

やっぱり楽しンかな…修学旅行

福田博造先生

    昔…昭和の30年代に京都の嵐山へ遠足に行ったンや。そしたら集合場所に…そら、もう模造紙を貼り合わせたような大きな紙に「ローソク」いうて書いてあってな。ボクの綽名なんやけど…白衣着てヒョロ~っと痩せてたからね。観光地の、それも公衆の面前で…みんな見ていくねんで。「こらァっ!」言うて怒るねんけど、ボクはちょっとも腹立ってへんねんな。生徒も全然、悪気ないんや。それ分かってるねんけど、怒鳴りつけんことには、貼った生徒も「甲斐」ないやろ(笑)。
    そういう悪戯やったら、なんぼしてもえぇと思うねんな。「あと…チャッチャと、ゴミにならんように片付けてな。ほんなら、ぼちぼち行こか」言うて。楽しかったなあ。

    遠足のあとは…決まって生徒らは梅田の歌声喫茶「田園」なんかに集結するんやな。もう、こっちは分かってるからワザと近くにおってな、夜の8:00くらいになったら見計ろうてな「早よ帰りやぁ~」言うて声かけて(驚かせて?!)帰ったもんや(笑)。

    北野いうトコは長い間男子校やったから修学旅行が無かってンなあ。男女共学になって、大手前では以前から実施していた…というので女子だけが行くようになり、昭和43年の卒業生から男子も行くようになったンや。 ボクら…遠足でも学校から行くのん面白なかったし、小グループで行くほうが面白いやろと思てた。林校長なんか「旅行いうものはそもそも集団で行くモンや ない。あの…何百人もの大群で旅行するのは後進国の日本だけで、先進国はぞろぞろと旅行なんかせぇへん。いずれは日本もそうなるハズや」と言うてはった。

    ところが、昭和43年に初めて連れていったときは、もうみんな底抜けに歓びよんねんなぁ。もう、そら「何がそんなに楽しいねん」いうほどやで。晩になっ ても寝ぇへんわで。それでルール作ってね…23時の就寝以降は男子は女子の部屋に行ったらアカンけど、女子が男子の部屋に行くのはえぇ、と。そしたら23 時なったらそっーと抜けだしよんねんな。

    修学旅行でも「目は離さん」いうのが方針やったけど、なるべく「口は出さん」ようにしたね。一番最初に修学旅行に行った頃は、まだホテル形式やなしに旅 館でね。それこそバス・トイレなんか無いし、ふすま一枚やからね。女子と男子の建物を分けるとか…こっちはいろいろと気苦労しててんけど、とにかく生徒は えらい喜んどったなあ。

    ボクが初めて卒業さしたクラス…昭和30年卒業の67期の会やけどね。在学中に修学旅行に行けなんだ反動か…卒業してからいろんなところへ旅行へ行ってるんやね。そのクラスとは白浜へも行ったし、琵琶湖も行った。伊勢も淡路島にも行ったなあ。
    こないだは78期が卒業30周年で「今年は海外旅行へ行くから先生も来とくなはれ」いうて言われたし…。修学旅行…やっぱり楽しいンかなぁ。そんなん分かっとったら、もっと早うに実施してあげたら良かってんけどな。最初とりあえず2泊3日で実施したら、今もずーっとそのままやってなぁ。「中学より短い」言われてんけど、まぁ~北野の欠点というか、ずっーと変われへんな。
    昭和50年代に校長さんが「あんたら(古株が)辞めたら、北野の修学旅行も4泊5日くらいにはなりますわ」言うてはってんけど…ボク辞めてんけど、まだ一向に変わってへんらしいで(笑)。

    修学旅行を夏休みとかでなくて、なんで12月に実施するようにしたかというと…寒いと事故も少ないからやと思うねんな。ホンマはあかんねんけど…こっそりアルコールなんか入る奴もおるし、暑いと…冷たい水に裸で飛び込んだりする奴も出てくるねんな。

    林校長が北野を退官して長崎におられてね。ボクらが修学旅行で長崎に行った折に遊びに来られたんや。そしたら生徒もみんなしっかりしてて…前校長が来ら れた、いうてキチンと挨拶しよんねんな。それからボクら…先生の家へ挨拶に行って御馳走になってたらね、奥さんが「酒屋で生徒が酒こうてまっせ」言わはっ てね。
    ボクはね「あぁ…見つけんといてくれたらなァ」と思うたよ。ぶっちゃけたハナシ…「部屋の中でそーっと飲んどいてくれとったらえぇのになぁ」とも。その 生徒はね…各部屋に風呂があるやろ。あれ、かなり熱うなりよんねんな。それで「燗」して飲んでたんや。アホなことに扉を開けときよってね…。まだ、ボクら あんまり分らんねんけど、酒のめへん女の先生には匂うんやねえ。「アンタら、何してんのん。」言われてね。
    「あーぁ」と思うたけども、見つけたらしゃーないがな。怒らンわけにいかんようになってもうて。ボクやったら素通りするんやけどねえ。後で親もよびださんならんし…担任の先生も難儀してはったワ(笑)。

    この頃…校舎が建て変わるというンで同窓会が多いんや。毎年必ずやる学年もあるし、忘年会を毎年やってる学年なんかもあってな。こないだも75期の同窓会があって「いま学校でいろいろ問題起ってんのみたら、北野は極楽みたいなモンやったなあ…」と言うてたとこや。 いくら外見が変わってもね。校舎は…建設会社が建てるんやけど、学校は「中にいてる人」やねんな。中の人間が仲よう楽しゅう作らなあかん。家とか建物 あっても家族にはならんのや。本当は人事が一番大事で…建物なんか金かけても大したことあらへんねん。学校というのは、校舎も大切やけど一番の主人公は生 徒やな。それと教職員。あんまり「校舎、校舎」言うてたら、ちょっと寂しいなぁ。

    ボクらの時は同じ高校に長く勤める人が多かったんや。校長が「これや」と思う人物を連れてくる…気に入らなんだら辞めてもらう。せやけど今はどんどん変 わるんや。もう、校長には人事権がないんやね。教育委員会が采配してる。多少は「置いといてくれ」いうたら効くらしいけど…。
    ボクは58歳で定年前に辞めたンやけど…もう「いつ転勤させられるか?」いう状態やった。今は10年くらいを目途に勤務校を変えさせられる。そやから ね、卒業生が大学出て会社でちょっと落ち着いて学校へ来ても…自分が習った「恩師」は、もう居てはらへんわな。別の学校になってしもてるンや。

    学校には、えぇ生徒が集まって来るところとそうでないところがあるなぁ。ボクと一緒で阪大から北野に来た西田さんという先生が、やはり北野出身やったけ ど…いつも口にしてはった。「金さえかけたら立派な校舎はナンボでもできる。金さえかけたらえぇ先生も取ってくることができる。せやけど…いくら金かけて も同窓会だけは作られへん」言うてね。

    聞き手●近藤喜治(55期)、上田博唯(77期)、石倉秀敏(84期)、
    島谷宏子(91期)、谷 卓司(98期)
    収 録●Apr.5,1998
    (豊中市服部本町のお宅にて)

Update : Aug.23,1998

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