第29〜33話まで、ポラントリュイの四大「ホテル」=公共建築物について述べたが、それらの建物は正にこの時代を象徴している。10年に渡った大規模な農民騒動を、フランス王の力を借りて鎮圧した司教は、権力を見せつけるかのように、巨大な館を次々とポラントリュイ市の中心地に建てた。これらの建物についてはこの5話を読んでいただくとして、ここではその他の荘厳・華麗な部分装飾について述べる。
バロック、という言葉自体、何やら重厚で荘厳な響きがあるが、実は皆様も知っての通り、語源はポルトガル語の「歪んだ真珠」と言われている。ルネッサンス時代の端正ですっきりした形よりも、楕円の平面や捻れ柱のような歪んだ形、動きのある形が好まれて使われ、爛熟期には過剰とも言えるほど装飾過多になったところを、悪趣味で下品な様式と揶揄または批判して使用した言葉だ。実際、ポラントリュイにあるサン・ピエール教会を改修前(バロック様式)と改修後(なるたけ建設当時に近い様式、つまりゴシック)を比べてみると、明確である。飾り立てられた祭壇・内陣付近は、「誇張」とも言える派手さ・重々しさが白黒写真でも伝わってくる。
また、この時代は、感受性を重んじ、驚嘆させる意図から、目の錯覚を多用した芸術を内部装飾に用いた。実はそれほど広くない教会の後陣部分も、写真の通り、手すりやギャラリーを描くことで少しばかりの奥行きを感じさせるのである。
18世紀の半ば頃からフランス大革命まで、ポラントリュイは全盛期を迎えた。バーゼル司教の地位は揺るぎないものであったが、有産階級市民も自らの邸宅から古臭いゴシック様式を排除し、流行のバロックに染まった。このため、旧市街の窓々は、上板が真っ直ぐに直され、更に金のある者は、凝った彫刻の要石で窓を飾った。 内装に関しては、この時代、化粧漆喰による天井・壁の装飾が流行りに流行った。化粧漆喰はイタリア語のスタッコから来た言葉で、フランス語では " stuc "。石灰に水を混ぜると熱を発して粉末状の「消石灰」を生じる。そこに粘土粉、大理石粉、砂、顔料を混ぜて練る。この材料を使って複雑に絡んだ草花や貝など、様々な形をもって飾り立てたのである。写真にある、「Roggenbach司教のチャペル」の天井は、1678〜79年頃、バイエルン地方のWessobrunn学校で化粧漆喰細工を教えるMichael Schmutzerの弟子達によって作られた。この学校出身の化粧漆喰工は引っ張りだこで、スイス各地の教会などの化粧漆喰を担当した。
建築史の順番から言えば、次はロココ(初期=レゲンス様式、盛期=ルイ15世様式)、そして新古典主義と続くが、これらの様式は同時代内に入り乱れており、境界が定かでない。また、バーゼル司教公国に限って言えば、芸術様式を楽しむどころでない、大きな歴史のうねりに巻き込まれてしまった。 1792年にフランス大革命軍がポラントリュイに到着した。バーゼル司教公国最後の司教・Joseph-Sigismond de Roggenbachは軍の到着直前に逃亡、Bienneを経てConstanceにたどり着いた。彼はその地で失意のうちに亡くなり、999年から続いたバーゼル司教公国は消滅した。
「フランス王朝と結託して農民を苦しめ惨殺した」かどで「革命の敵」と見なされた公国権力者の館は革命軍に没収された上、町の各地で建物が破壊された。民主主義が、蛮行により歴史上に汚点を残したことを、非常に遺憾に思う。 ポラントリュイを含む現在のジュラ州は、革命軍が勢いで作った束の間のローラシアン共和国、恐怖政治がはびこった新生フランス国への従属、ナポレオン統治時代を経て、1815年ウィーン会議が下した併合法令で、ベルン州に属する形でスイス国に組み入れられた。 華やかなバロックは遠い昔の話になったが、落ち着きを取り戻したポラントリュイは、不死鳥の如く蘇り、19世紀半ば過ぎから文化的・経済的に飛躍を遂げるのである 〈参考資料〉 西洋建築様式史(美術出版社) |