Salut! ハイジの国から【第38話】 まえ 初めに戻る つぎ

ポラントリュイだより:
陶器の村、ボンフォル(Bonfol)《その2》

 「人に歴史あり」と言うが、人口数百人の小さな村にも大いなる歴史が存在する。ワールドアイで歴史エッセイ執筆のお仕事をさせていただくことになって以来、スイスのどこにでもある小さな村の資料を紐解くことが多くなったが、悲喜入り乱れた豊かな深層に、驚嘆することしばしば、ボンフォル村もその一つである。


▲ボンフォルの池
四季折々、美しい顔を見せてくれる。

 1989年、偶然、鉄器時代(ハルシュタット初期)の土墳が発見され、アジョワ地方で最初に人間が定住した村と推測されている。ボンフォルという村の語源はラテン語で「良き森」に通じるが、ケルト語では「粘土の豊富な場所」である。古来より陶器作りの盛んな村であるから、私としては後者を押したい。(しかも、ローマ人はケルト人の後に入植しているゆえ)

▲池周辺に集まる鳥のパネル
池の周りにある遊歩道には、様々な動植物に関する
説明のパネルが設置されており、散歩しながら自然
について学べるようになっている。



ちょっとグロテスクな色使いだが、池に住む(または
養殖されている)魚達。鯉のフライはこの村の名物。
レストラン「Grütli」が評判の店。

 ボンフォルの名は1136年、最初に文献に登場した。粘土・陶芸についての記述はもっと後になってから、1383年である。この粘土、ライン氷河の堆石(モレーン)の賜物で、ジュラではここでしか見られない地層であるから、氷河はちょうどこの村で終わっていたと推定される。赤みを帯びたボンフォル粘土で製造した陶器は、荒削りながら火に強い。特にフォンデュ鍋は一世を風靡した。現在でこそフォンデュと言えばチーズフォンデュなどスイス料理の代名詞たる料理に使われるものと思われているが、フォンデュ鍋 = caquelon(カクロン)の語源はcaquelle(カケル = 焼いた土・テラコッタ)であり、どの家庭でも様々な煮炊きに使っていた一般的な調理鍋だった。元々は三本足で、直火にくべた。質素で実用重視・丈夫なボンフォル製の鍋は1283年からポラントリュイ・アジョワ地方の支配者となったバーゼル大公司教宮廷の台所で重宝された。

 歴代バーゼル大公司教はこの村の池をこよなく愛した。自然の中で散策を楽しみ、狩猟という娯楽に浸った。この池に集まる様々な魚や鳥は、宮廷の食糧ともなった。この池は1961年、自然保護地域に指定されたため、現在では植物を採取したり動物を捕獲することは許されない。キャンプや焚き火も禁止。犬を放し飼いにすることはできないので愛犬を連れて散歩の際はご注意を!


▲ルーベンスが描いた
最後のブルゴーニュ王・シャルル突進公

知的戦略というよりは情熱の赴くまま無謀な戦争を
繰り返したことからつけられた渾名。神聖ローマ皇帝
になりたいという野望があったらしい。彼の戦死後、
娘マリーが神聖ローマ皇帝となるマキシミリアン一世
に嫁ぎ、短命ながらも幸福な結婚生活を送ったことで、
魂は安らいだだろうか?


 
 美しい池と森林を有し、村人は農業と陶器製造に勤しむ・・・一見、おとぎ話に出てくるような村にも、悲惨な歴史がある。
 1474年、ブルゴーニュ戦争のきっかけは、この村も含めた、オー・ラン地方(Haut-Rhin)の悲劇が発端である。ブルゴーニュ王、シャルル突進公の補佐官でオー・ランの代官であったピエール・ド・ハーゲンバッハは、Breisach市民の蜂起により、捕らえられ、正当な裁判もないまま処刑された。彼の弟であるエティエンヌ・ド・ハーゲンバッハは、兄の仇とばかり、蜂起に加担した市町村を急襲。ボンフォル村もその犠牲となった。生き残った民は村はずれに集まり、他村の協力も得ながら、新しい村作りに取り掛からなければならなかった。スイス連邦と同盟軍はフランス王ルイ11世と協定を結び、戦争に突入。ブルゴーニュ王シャルルを倒すために3年を費やした。ブルゴーニュ公国南半分はフランスに併合され、北半分フランドルはシャルルの遺児マリーが神聖ローマ皇帝の後継者に嫁いだため、ハプスブルグ領となった。

 中世ヨーロッパを吹き荒れた魔女狩りの嵐は、小さな村をも見逃しはしなかった。1609年、魔女の疑いをかけられたある寡婦が首をはねられ、火刑に処せられた。
 1618‐1648年の三十年戦争では各国軍傭兵の現地調達・・・つまり略奪に苦しみ、他の市町村同様、大きな被害を蒙った。とりわけ酷かった1634年、スウェーデン軍はボンフォル村を占領した挙句に焼き討ちし、数多くの住民を虐殺した。この時、12km離れたポラントリュイは「奇跡的に」暴虐を免れている。第18話「奇跡の聖母伝説」をご参照に。
 1768年、水が抜かれていた大池からガスが発生、悪性の熱病を流行らせた。僅か数日間で宗教関係者を初め、60人が死亡した。多くの家々は腐り、閉鎖された。
 第一次世界大戦中、フランス・ドイツ戦線に近かったため、誤爆を受けた。しかし、ある仏・独バイリンガルのスイス兵の提案で、クリスマスの夜、フランス兵とドイツ兵が村で一緒に夕食を取ったというような美談も存在する。


▲陶器作りの様子を表した絵画
かつては家内産業だった
   数々の困難を乗り越えたボンフォル村は、19世紀後半よりジュラの近代化・産業化と共に飛躍的に発展を遂げていったが、その後の痛々しいばかりの斜陽ぶり・復興に向けての努力は次回お伝えする。
まえ 初めに戻る つぎ
Last Update: Jan.23,2007