時のバーゼル大公司教、バルデンシュタインのジョゼフ=ギョーム・リンクは、自分の居住地であるポラントリュイを、「小さなパリ」にしたかったのかも知れない。室内が暗くカビがはびこり衛生的とは言えないゴシック式の古い市庁舎は、司教の命により、バロック式の優美な豪邸へと変貌を遂げた。
一階は武器庫として使われていた。自由都市の実質運営を一手に引き受けていた有産階級者は、有事の際には騎士となり、敵と戦うのである。二階は会議室であったが、台所と隣接し、しばしば大宴会場となった。宴会は議員やその伴侶のためだけでなく、町の有産階級者の婚姻時にもここで開かれた。誓約書宣誓の度にはすべての有産階級者とその伴侶が招かれ、その数は150〜200人にも及んだ。
宴会について面白い逸話がある。酒蔵がなかったため、ワインは買い置きせず、そのつど酒屋に必要なだけ買いに行っていたという記録がある。 現在ではまったく当たり前にように出される食器類は、中世では貴重なものだった。この市庁舎では錫製の皿が100あまり、大皿が50ほど用意されていたが、それは身分の高い者用で、下層民には木製のコップや皿が出された。会食者全員に皿が行き渡らないこともあり、その場合、男性は隣の貴婦人と皿を共有した。女性が意中の人であった場合、男性は緊張と遠慮のあまり、食欲を忘れたのではないだろうか。 料理用の野菜は菜園に豊富にあった。肉は雌鹿や野ウサギで、その他の肉は肉屋に注文した。大公司教の来訪の折は雌鹿料理でもてなした。
ポラントリュイはバーゼル司教公国に属していたため、絶対君主は大公司教であったが、町は実質、有産階級者が牛耳っていた。市場が開く一時間前に市庁舎のバルコニー上に小さな旗が上がったが、それは有産階級者が優先的に買い物をしてもよいという知らせであった。
こう書いていると、有産階級者や市会議員は贅沢ばかりしていた感はあるが、組織が秩序化され結束していたことで、後世に伝えられた資料は非常に貴重で、中世の生活を細かく知る大きな手がかりとなる。この市庁舎に設けられた有産階級古文書室にはヨーロッパ最古の洗礼記録がある。 1481年12月26日。出生日は分からないが、中世では洗礼を受けずに死ぬと天国に行けないと固く信じられていたので、赤ん坊はクリスマスからそう遠くない日に出生していたのであろう。ちなみに1482〜1500年の記録では、男の子に一番多い名前はジャン(Jean)(キリストの十二使徒の一人、ヨハネ)で男子全体の30%、女の子はジャンヌやジャネット(Jeanne, Jeannette)(ジャンの女性形)で女子全体の21,8パーセント、現代のようなバラエティに富んだ名前は見当たらない。排他・嫌悪の対象となったユダヤ教徒を除き、国がカトリック一色に塗られていた時代でもあった。
Last Update: Jun.23,2006
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